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前々から思っていたのだが「差別用語が何たらかんたら」というのはアホの所業だと思っている。
本来、コミュニケーションと云うのは「言葉を伝達」するためにある。
まあ、色々な意図が入り混じって「会話」をする訳だが、会話において一番重要な事は「相手に思いを伝える事」である。
社交麗辞のような奇麗美句で体裁を整えても「真意が伝わらない」なら、会話の価値はない。単なる時間も無駄であろう。
「固有の状況」とか「状態」もしくは「症状」あるいは「名称」
社会一般通念上で「使われていて、意味が通る」という言葉を使うのが「一番、コミュニケーションの成立に良い」に決まっているだろう。
例えば「総合失調症」とか言う言葉がある。
仮にAとBの会話において、どちらが一方が「言葉の意味を知らない」とすれば、AとBのコミュニケーションは成立しない。
仮に知っている方が「差別用語を回避し続ける性格の人」ならば場合によっては最後まで意思疎通はできず、仮に出来たとしても「えらい時間の浪費になる」だろう。
イジメ等を意図して「言葉を投げつける」のは「人間的に卑しい行為」であり批判すべきである。
もしくは「対象の存在を不当に貶めるために使用」するのも「誤まった行為」であり否定すべきであろう。
しかし、コミュニケーションの手段として情報伝達のために使用するのに「差別用語が何たら」言う奴は「何も考えていない」
条件反射的に「反応しているだけ」と言えるだろう。
その思考停止が「言葉狩り」に繋がる。
まさしくアホの所業であろう。
使用者に「悪意がある」か「ない」か、それくらいは判断できるだろう。
聞いた人が「不快」に思う事もあるので、使用しない方が良いと云う意見もあるだろうが「事実は認めて、それを受け入れる」という事は必要であろう。
例えば、身障者が「聞いたら不快と思われる言葉」があるとする。
それを「言わなければ」また「聞かなければ」、状態は改善するのか?
改善なんかしないだろう。
それは「忘れようとしているだけ」であろうし「現実逃避の一種」だろう。
Kは冷たいのかもしれない。
非情なのかも知れない。
しかし、事実は認識し受け入れて「そこから前に進んでいかなければ、永久にハンデに飲み込まれているだけの人生」になるだろう。
「犬」は駄目「ワンちゃん」と言いなさい。
と云うかのような「主観に依存するかもような言葉狩り」を見直さなければいけないだろう。
しかし、