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(回答先: 日本は滅びそうだと思う。 総合的政策ビジョンを考察する。 投稿者 考察者K 日時 2007 年 5 月 26 日 09:52:59)
前章において行った問題提起において、もう少し突っ込んだ考察と具体策の提起をしなければ、とても「総合的政策ビジョンを考察」した事にはならないだろう。
現在の社会体制崩壊の危機というのは「資本主義の競争社会の招いた悪循環が断ち切れなくなった事に起因している」とKは考えている。
まず、大衆という要求層のニーズがある。
多様な価値観があり、一概に論ずるのも危険ではあるが、最大公約数的に要求を集約するとすれば「安価な要求の実現」になるのだろう。
オリジナル性とか特殊性という部分は少数の個々の要求としてはあるが、この部分は個人の個性であり、中には「ステイタスとして高価な装飾品で身の回りを飾る」という要求もあるだろうが、一般大衆としての最大公約数として集約するのなら「横並びの人並みの生活」を「家計収入の範囲として実現する」という事こそが要求になるのだろうと思う。
幸福感という意味において人間は際限のない餓鬼としての性格を有している。
しかし、同時に人間は分別もわきまえている。
大まかに言えば「他人との比較において人並みの生活」ができるのなら「我慢もできる」のが大衆という部分である。
ここに我慢できない(=安住できない)という性格の人も存在はするだろうが、その人達は大衆から良かれ悪かれは別にして離脱する。その時点で「大衆という定義から逸脱する」と云うことである。
極論してしまえば「大衆とは勝ち組に這い上がる事を放棄した多数的庶民」と言えるだろう。
「あきらめ組」と表現した方が分かり易いかもしれないが、その人達の希望は「現実的としての収入(=家計の収入)で、実現できる文化的生活(=人並みの生活)」という位置付けにならざるをえない。
「スーパーでの特売の時の主婦達の目の輝き」というイメージを考えていただくと「大衆の値段に対する執念」という一面を感じ取れるが、これは、少ない収入で人並みの生活をやりくりする苦労が滲み出ているという意味合いでもあるのだろう。飢えた家畜が少ない餌に群がるのと同じなのかもしれない。
「安値こそ最大のお客様サービス」というのは「文化的という視点で考えた時には決して容認できない考え方なのだろう」
「大衆(=あきらめ組)」である事は恥ずかしい事ではない。絶対的多数派が「大衆」なのである。
「勝ち組」である方が異邦人であり、異分子なのである。
本当に恥ずかしいのは「異邦人に媚」「異邦人の意のままの行動パターンを行う事」なのであろう。
「安値こそ最大のお客様サービス」などという「勝ち組の論理誘導」に乗せられ、バーゲンセールで競争購買をするとか行列店に並ぶという「行動こそを恥と認識すべき」なのだろう。
「武士は食わねど高楊枝」ではないが、文化というのは「本能の抑制」という部分もあるのだろう。
実は「安価絶対主義」こそが全ての悪循環の根源である。
安価絶対主義→人件費コストダウン→賃金抑制→家計収入減少→安売りの歓迎
との循環で益々安価絶対主義が強化されていくと云う事になる。
これは、税収と云う面においても「直接税(給与の所得税)」「間接税(消費税)」の両面においてマイナスの効果が表れる。
結果的に福祉の切捨て、年金制度の崩壊(=掛け金の増加、年金支給額の低下)などを引き起こし、将来不安、雇用不安、老後不安、生活不安などの心理不安の相乗効果で貯蓄重視市場停滞社会傾向になり、「夫婦の共働き(=収入の確保)」になり「長時間過密労働の自主的な就労体質の容認傾向(=雇用確保のための企業論理へのゴマすり傾向容認)」の方向にドンドンと流され、すれ違い生活による離婚増加、家庭崩壊、少子高齢化の加速と流れて行く、因果律から言っても当然の帰結である。
「給与収入」「福祉」「年金」「税収」「市場」が全て縮小していくのであるから、悪循環であり、その中で「夫婦」「家庭」「健康」「気分」「次世代育成」と言ったものが破壊され「安売り競争」だけが発達しているのである。
「安売り競争」のテクニックとして「非正規社員の短時間労働力の需要増加」「派遣社員の不安定労働力の需要の増加」なども生まれ、その中で「社会システムは崩壊の方向に突き進んでいる」のである。
これ以上の愚行はあるのだろうか?というレベルの愚行を行っているとも言えるだろう。
しかも、ターゲットである大衆は「安売り競争を歓迎し」「その政策を行っている自民党の応援団」にもなっている。
「自らの首を絞めている」と云う事に気付かない人は多いだろう。正に自分の足元である生活の場を掘り返してその穴に落ちようとして「既に脱出路のない状況・八方塞出口なしの状況」である。
多分であるが「安価競争を否定しよう!!」とKが叫んでも効果はゼロである。
大衆は「自分がどうにもならない場面までたどり着かないと現状の生活を変化させようとしない」という性質も有している。基本的に保守こそが多数派なのである。
大衆を変えるというのは限りなく困難である。現実の社会はゲームの世界とは違って、リセットスイッチなど存在しない。
社会というのは「構成員(人・大衆)」と「機構(システム)」の二大要素で構成されている。
人(大衆)と云う部分からの是正が無理であるならば、後はシステムを是正せざるを得ないというのが消去法からの考え方である。
「安価絶対主義」を否定し実践する人を生み出すのは困難である。なんせ、否定しようと頭で理解していても「給与収入が伴わない」という現実の壁が立ちはだかるのである。
常に「実践方法を提示されない理想論」は「現実に敗れ去る」のである。
実践方法なき理想論を語るのは詐欺師と同じであり、人々を惑わすだけの迷惑な厄介者であると言わざるを得ない。
問題点を分析し治療を施すなら「子造り家庭の援助金」などという小手先の政策では意味はないだろう。
Kからすると「既に局所的な対処療法」では済まない症状に進行してしまっている。
効果が全くないとまでは言わないが、子造り支援の財源によって「更に家庭の家計は圧迫され、夫婦の対話時間、共存時間が短くなり、夫婦・家庭の崩壊は総体として悪化する」事も予測されるので「イタチゴッコ」のようなものだろう。
長時間過密的な人権無視の労働環境を是正しなければ「何をやってもイタチゴッコ」だろうとKは思う。
具体的に言えば75歳程度までならば「本人の希望によってだが勤められる労働環境」というのを構築する必要がある。
定年制を延長するという単純なものではなく、60歳(基本として)定年で「役職は退職」してもらい「退職後は現場の労働者」として希望する限り勤めると云うことである。
賃金的には「少なくとも本人の支給される年金額よりは上」とする。
これによって予測される効果は「60歳以降に自分が就業する可能性のある現場の職場環境を劣悪にはできない」という部分がある。
後方の「現場を知らない者による机上の空論による無理難題の現場への押し付け」という企業の体質も改善されるだろう。
今まで役職・管理職として勤務していた「企業の功労者が現場の声」として「労働組合員」の立場で「上層部と交渉をする」のなら、企業の経営サイドも無碍にはできないだろう。
現在の労働組合の体質として「役職としての経験がない・若輩者の意見」という部分があり「無意識のうちにもなめられている」と云う部分はきっとある。
それは昨日の「太田総理」の「国会議員の定年退職」という提案の中での議論においてもあらわれていたが、「歳と経験値」というのは無視できない要素として存在している。
定年によって現場に下りた「労働者(=役職・管理職経験者)」というものの発言力はかなりの影響力と説得力を持って経営サイドに受け入れられるかもしれない。
同じ意見であっても「小利口な若輩者」が言うのと、「経験豊富な年長者」が発言するのでは「受け取り側の受け止め方が全く違う」のである。
仮に、政策として実現し、企業に取っての義務として「日本文化の中に根付く」としたら、様々な問題は解決の方向に向かっていくだろう。