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(回答先: Re: 靖国神社問題の霊的観点 投稿者 Narongchai 日時 2007 年 5 月 22 日 04:32:47)
ぼけとるもんじゃから見落としておったわ。遅くなったけど勘弁して欲しいのう。
お問いかけに対するお応えについては、難しい話ではないんじゃが、誤解無く説明するために、ちょっと遠回りしながらご案内したいのでお付き合い願いたいのう。
ワシのHPにあるように、人は皆、魂の向上を果たすためにこの世に生をいただき、人生の良いことも苦しいことも、結果的に個々の魂の磨きのために起きてくる現象に過ぎんのじゃて。それを、死に変わり生き変わりしつつ(輪廻転生)善行を行い、徳を積みながら少しずつ向上を果たし、悠久の時の流れの中で高みに登って行くのが、正しい道なんじゃわさ。
この時、高み(どの程度か分からんけど)に行けば自ずから神となって行くのが、人という存在らしいんじゃて。
したがって、英霊になれば神になるなんて云う話は、菅原道真公の怨霊が怖くて神様に祀り上げたのと同じじゃわさ。
しかしながら、止むに止まれぬ状況に至り、人々の幸せを祈り、多くの人ために命を投げ出す心、行為は大いなる徳積みであり、魂の向上になって行くんじゃわのう。
とは言え、誰でもそうかといえば、個々に大きな差異があるわのう。敵兵といえどもいたずらに人の命を奪い、部下をいじめ、命の尊厳を踏みにじり、人を虫けらのように扱う言動を繰り返せば、大きく魂を低下させるわさ。
戦争は人を崇高にしもするが外道に貶めもするんじゃて。ゆえに靖国神社が言うように一体になれるはずがないのが実相じゃわのう。一同には並ぶじゃろうが。
しかし、祈る側とすれば、いずれの方々も犠牲的精神で命を捧げたとし、残った者、子孫が哀悼の意をささげるのは人としての当然の道じゃて。
しかるに、人々は靖国神社で感謝の念を捧げ、故郷の墓や、家の仏壇などでの慰霊と、多くの人が多くの場所で死者を供養することは、多すぎることはなく、家族は家族で懇ろに供養することが大切じゃわさ。もちろん侮辱などはありえんわのう。
戦争では命だけじゃなく、多くの人々が財産あるいは心や体も傷ついたはずじゃて。それら全て悲しみや痛みは、辛いじゃろうが、過去に積んだ不徳の積み穢れを払拭することにつながり、そうした意味において、お父上の負傷もまさに名誉の負傷であり、戦後も大変ご苦労されたことと推察するが、そうした苦しみ悲しみの一粒一粒が、やがて子孫への輝きとなって必ず還って行くのがこの世の摂理じゃから、もし、すでに帰幽されておられるならば、命日には心を込めて感謝を込めて供養してくだされ。
ワシの父は大戦前の日華事変で中国に出兵し、そこである時、上官から現地中国人の首を落とせと命じられ、軍刀を渡されたが、どうしてもできんかったそうじゃ。それを、臆病者、意気地なし、腑抜けと皆から馬鹿にされ続け、本当に腑抜けとなってしまって、ワシら家族は貧乏生活じゃった。
ワシも青年期の多感な時期には、父を軽蔑し情けない奴としか思っておらんかったもんじゃが、その後、様々な人生の体験を重ね、人としての道を学び、今では「よくぞ腑抜けであってくれた」と感謝する心となっておるんじゃて。
立身出世のためなら何でもできるような畜生道よりも、意気地なしと指差されても、人を苦しませ、悲しまさせる行為に加担できん心の方が、はるかに尊いことじゃからのう。
余談じゃが、先の大戦については悲惨な敗戦ではあるが、意味の深い敗戦であり、もし勝利していたら、今よりもっとおぞましい世界が展開しているだろうと思っとるんじゃが、どうじゃろか。日本は古より、不戦を世界に伝える立場なんじゃから。
まぁこんな具合に考えるんじゃが、多少は参考になったじゃろか。なれば幸いじゃが。