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(回答先: Re: 頑張れば報われるのだろうか・・・ 投稿者 キルケゴール 日時 2007 年 2 月 27 日 21:38:26)
キルケゴールさん
こだわりをなくすとは、宗教じみた発言ですね。
若い頃の釈迦は、さんざん放蕩をつくしたあげくに人生を考えるようになり、家族も地域も身分も全てを捨てて解脱したそうです。
それ以来、俗世と寺社の世界には明確な線が引かれるようになったそうです。
それが小乗と呼ばれた原始仏教の形だそうです。
アンチテーゼとしての解脱思想はときに発想の転換として有用なことを認めます。
ここに福井総裁の言を示しましょう。
「自分の持っている大切なモノを手放してお金に換えても、そのお金は価値をきちんと保全し、次に必要なモノを手に入れるときに役立ってくれる。」
至極もっともなことを言っておりますが、この言をとある経済学者は厳しく糾弾します。「大切なモノ」は普通、お金には換えられない、あるいは換えてはいけないモノである。人生の最大の悲劇は、「大切なモノ」を奪い取られたり、追い詰められてお金に換えなくてはならなくなったときである。
なぜ人は頑張るのでしょう。
俗世に疲れ、地位や名誉、カネや家族など全てを捨てて寺に入ることもいいでしょう。しかし、家にはかけがえのない家族があり、カネに換えがたいかけがえのない財物があります。職場にも大切と思える仲間がいて、そんな人たちに迷惑をかけてはいけない。また時に命をかけても守っていかなければならないと思うことがこだわりだとすれば、キルケゴールさんの指摘はいささか厳しさを感じてしまうのは斜に見てしまうゆえでしょうか?
個人的にはこう思うのです。そんな個人の事情を無視したり、時に有利に利用するような輩が増えているように思えることです。過労死を自己管理が出来ていないとはどこぞの会社社長の発言があります。労働を切り売りしているのが労働者だとはどこぞに大臣の発言です。発想の転換でそう言った人たちに解脱思想を説いてまわるのはいいことかもしれません。しかし、堅気に生きる普通の人々にはそれぞれに事情があり守っていかねばならない対象を持つ善良さを兼ね備えていると思います。その善良さを否定的に使う輩をこそ憎むのです。しかし、その非情な手法は福井総裁の発言にもあるとおり、一般的にも広範囲に受け入れられているように思えるのです。