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自分の体は自分のものであり、自分の健康状態は自分で判断すべきであり、それのメインテナンスは、自分の責任である。
第三者が介在する余地はないというのが私の持論です。
しかし、健康を維持させ、メインテナンスさせる余裕、サポートを与えるのが、為政者、雇用者の重要な仕事であるのはいうまでもありません。長期的に、健康な国民、労働者を抱えているのは、好きな表現でありませんが、「コスト安」です。
職場の管理者が、職場に一見して、顔色が優れないものがあれば、それを問いただし、必要があれば帰宅させる。人として、管理者として、当然のことと思います。
問題は、
なぜ第三者にすぐ「バレる不健康状態」で職場に現れるかということです。
仕事に対する責任?、周りに迷惑がかかる?、「やる気」を上司にアッピールする?
しかし、その「労働者の美徳」の裏側に、「自分で病状、出勤、欠勤を判断できない」、仕事以上に大事な「決断を他者に(結果的に)ゆだねる」、そして、「自分で判断する癖」をつけていない、平均的職業人の「危険な特性」を垣間見るんです。
だから私は、挑発的ですが、健康自己責任論の看板を掲げたわけです。
蛇足ですけど、「無理出勤」は、時に、同僚に間接的にプレッシャーをかけることがあります。結果として、互いで互いの首を絞めあうことになると思います。
当然、病気で倒れたらまず自分が、家族が困ります。算数の表現で恐縮ですが、
「家族、自分の人生、つまり広い意味での仕事」>「いわゆる、仕事」
でなければなりません。
この原則が明確でないと、「無理出勤」から、過労死までの距離はそれほど遠いものでありません。そして、「奥谷のようなものに」、ナメられてしまう。
わたしは、過労死について書くと、連赤、オウム事件のことを思ってしまいます。
高等教育を受けたものが、心理学で言う、「グループダイナミズム」というものを考慮しても、ある(極限)状況のもとで、基本的な善悪の判断、快、不快の的確な表現ができない、そこに、「個人が確立していない」悲劇を見るのです。(蛇足ですけど、前者の事件は、当時の青年たちに生涯消化不能のショックを与えた)
健康自己責任論云々したのは、平均的職業人は、自分の本当にしたいこと、快、不快感を的確に表現できる「自分」を確立しないとますます生きずらくなる。
「連帯」はその上に乗せればいいと思います。
Kさんとは、個人とか、利己主義の基本的理解についてかなりな乖離があるので、
話が、かみ合わない部分があるようです、私の筆力を棚にあげての話ですが、、。
読んできた本も違うようだし、長い、メリハリのない文章にしたくないので、それは、それで、そのままにしてきます。