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(回答先: 自由、平等、博愛、、本当に存在するのでしょうか? 投稿者 haru 日時 2007 年 2 月 06 日 18:39:33)
横レス失礼します。気になったので少しだけ。
>自由、平等、博愛、、本当に存在するのでしょうか?
>ないものをあるように存在させる人間の想像力、あるいは創造力の賜物なのではないでしょうか?
自由、平等、博愛というのは、永遠に追求すべき目標のようなものではないかと思います。
今は不十分にしか存在しないものを、少しでも多く存在させるように努力する、といったところでしょうか。
だから、本当に存在するのか、と聞かれれば、私は、存在するが不十分にしか存在しない、と答えます。
>自由とは、制約に対する対義語として捉えれば、地球に住んでいる限り制約のない世界に存在する事は可能でしょうか?
自由というのは生き物全ての生まれ持った権利のような性質を持つようにも思います。
生き物が地球に共生すべき存在である限り、人間にも、他の人間及び生物と共生していくに当たり、制約はあると思います。
しかし、甘受しなければならない制約と、そうでない制約があるのではないでしょうか。
そして、その、甘受しなくてもよいはずの制約というものを明らかにし、その制約を取り除いていこうとしているのが、自由を求めるあらゆる活動、抵抗運動ではないかと思います。
>否、多分瞑想や夢の世界なら可能でしょうと思います。
>ごく普通に使っている自由という言葉は、人々を惑わす宗教的な教義とどこが違うのでしょうか?
自由というのも一つの概念ですから宗教的なものがないとは言えないかもしれません。
ひょっとすると、人間の作り出している言語なんてものはすべて宗教的かもしれません。
でも、そんなことを言い出したら宗教嫌いの人間は何も言えなくなります。
いずれにしろ、私は「自由」というのは生き物の持つ普遍的な権利ではないかと思いますし、宗教と言われようが何といわれようが、重要なものとして主張していきたいと思います。
>平等、、、。平等でなければいけないと思えば、差別、不公平、不均等、、そのような現実に対して不平が生まれます。また、争いも生まれることでしょう。
差別、不公平、不均等を完全になくすことはできないかもしれませんが、だからといって平等を追求することをやめたら、どうなるでしょうか。
差別、不公平、不均等がなくなることはありません。
差別され、不公平な状態におかれ、不均等な待遇を受ける者は、平等という概念を知らないからといって不平を感じないのでしょうか。争いに発展しないのでしょうか。
>一人一人、性格、体格、思想、出自、、、、
>始めから違うものに平等という言葉を無理矢理当て嵌めれば、なれ合い的な同意が必要でしょう。不平、争いを打ち消すのに充分ではありません。
始めから違うからといって、そのままでいい差異と、そうであってはならない差異というものがあるでしょう。
性格、体格、思想といったものは、差異があって当たり前であり、そこに平等などという概念を持ち出すことは画一化、規格化につながるだけで、百害あって一利なしでしょう。
出自については、例えば、生まれた家の裕福度、親が両方いるか、など、いろいろ条件が違うかもしれませんが、そうした条件の違いによって誰かが不利な生活を強いられることがないよう、平等を志向していくことが必要なのではないでしょうか。確かにそれは「馴れ合い的な同意」に終わるかもしれません。しかし、たとえそうであっても、何らかの合意を目指して努力すべきなのではないでしょうか。
不平、争いを打ち消すのに充分ではないからといって、平等の追求をあきらめたところで、不平、争いは打ち消せるのでしょうか?あきらめたら、より酷い状況になるのではないでしょうか。
>博愛とは、わたしにはなんだか判らないので調べてみましたが、
現代の倫理道徳における人権の意味、人権と道徳との関係を説いてください
http://rc.moralogy.jp/qa/1999_2.html
>博愛とは、この自由と平等を、すべての人々に差別なく広げ、さらに高めていこうということです。
ご紹介の博愛に関するページですが(http://rc.moralogy.jp/qa/1999_2.html)、
博愛とは、そこにあるように、
「みんなで決めた法の下で各人、相互に法の下の平等を尊重し合い、やましいことには手を染めず、誠実に正直に正々堂々の道を歩む」
「各人の生存権をお互いに保障し合うという相互義務」
「私たちは、妥当な水準で福祉に関する貢献、税・保険の負担、介護や奉仕について、共同義務を引き受けなければなりません。」
といったものだと思います。
要は、お互いに尊重し合い、お互いの生活が成り立つようにお互いに助け合っていく、ということでしょう。
「博愛とは、この自由と平等を、すべての人々に差別なく広げ、さらに高めていこうということです。」
という言葉だけを捉えると確かにharuさんのおっしゃるように「人間の想像力の産物」だとか、それを「人々に広げるという事は、多分に宗教的」だ、といった認識につながるかもしれませんが、お互いに尊重し合うことだと捉えれば、宗教みたいな怪しげなものとはちょっと違う、というふうに感じられませんか?
>私たちは、無宗教、無信仰と云いながら、知らないうちに何らかの教義に従って生きているようですね。
それはそうかもしれません。
しかし、何かのシンボル、例えばキリストとか十字架を信奉するのとは、また違うのではないでしょうか。
何らかの価値観に従って生きることと、何かのシンボルにすがって生きることとは、別だと思います。
>自由と平等、、そこに取り憑かれるよりも大切なものがある様な気がいたします。
取り憑かれるといったような悪いものでしょうか。
>それを、我々日本人は知り、かつ備えているのではないでしょうか?
>それは、、。
>私は、まだ辿りついておりませんが、、。
たどり着いたら是非教えてください。
少しだけとか言いながら書きすぎました・・・