★阿修羅♪ > 国家破産53 > 629.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
あなたのご協力のもと、Wikipediaが世界を変革します » 今すぐ寄付!
"education is the greatest gift of all"— Anon. [このメッセージを隠す]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%94%BF%E4%BB%A4
[詳細表示]
11月25日(日)、東京にて2007年末ミーティングが行なわれます。
徳政令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
徳政令(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて朝廷、幕府などが債権や債務の放棄を命じた法令である。
[編集] 徳政
「徳政(とくせい)」とは天人相関思想に基づき、代替わり或いは災害などに伴い改元が行われた際に天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策のことであり、「新制」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付,所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。
鎌倉時代に入ると災害や戦乱などの社会的混乱が貴族社会にも及び始め、遂に承久の乱では朝廷軍が敗北して上皇の流罪が行われるなど、貴族社会が存続の危機に差し掛かっていることが明白となった。こうした中で、朝廷内では現実的な政治に目を向ける事で求心力を回復させて昔の権威を取り戻そうとする動きが盛んになった。「徳政」はその路線の上に推進された政策であり、徳政令はそうした政策の一つである(徳政≠徳政令)という事を留意する必要がある。
鎌倉幕府も朝廷政治の現状を状況を批判的に見る立場から朝廷に対して「徳政」推進を求めた。後嵯峨上皇の下で記録所が再建され、続く亀山上皇院政下の1286年(弘安9年)には、院評定を徳政沙汰(人事・寺社などの行政問題)と雑訴沙汰(所領・金銭などの一般的な訴訟)に分割するなどの改革を行い(「弘安徳政」)、1293年(正応6年・永仁元年)には伏見天皇(のち上皇)が記録所を徳政推進の機関として充実を図った(「永仁徳政」)。
当初、こうした政策は元寇などによって混乱する社会秩序の回復を図りたい鎌倉幕府の政策と軌を一にするもの(安達泰盛による幕政改革も「弘安徳政」と呼ばれている)であったが、やがて徳政の本格化とともに朝廷の威信回復の考えが旧体制(鎌倉幕府以前への)復帰を模索する動きに結び付けられるようになると、鎌倉幕府は皇位継承における両統迭立政策を名目とした政治介入を行い、亀山・伏見両上皇の院政停止を行った事から朝幕間に緊張状態を生み、やがて後醍醐天皇の親政に至ってついに鎌倉幕府に対する討幕運動へと転化することになったのである。
[編集] 徳政令の実施
鎌倉時代の徳政令には、貧窮に苦しむ御家人保護の名目が強く、1297年(永仁5)の永仁の徳政令が知られる。1334年(建武元)には後醍醐天皇が徳政令を行い、1441年(嘉吉元)には嘉吉の徳政令が行われる。室町時代になると惣の発達により、徳政令を求める土一揆、徳政一揆などが頻発した。また、一揆勢力や在地勢力が独自に行う私徳政なども行われた。また、当初は徳政令に慎重だった室町幕府も1454年の土一揆を機に分一銭(ぶいちせん・分一徳政令(ぶいちとくせいれい)・徳政分一銭(とくせいぶいちせん)とも)を発布して、債権債務額の1割を一種の手数料として幕府に納めた紛争当事者に当該債権債務の権利を許す命令を出したが、これは債務の1割が幕府の収入となったため、後に幕府財政再建のために濫用されることとなった。
[編集] 関連項目
棄捐令(江戸時代)
神領興行