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(回答先: 真の自由と主権を獲得できれば理想社会の構築が容易になる 投稿者 sunflowers 日時 2008 年 2 月 09 日 01:27:29)
(貴方に良心を感じるのは確かです。貴方のH.N.を名指した表題ですが、これはこの板に続きを載せるための手段で、決して個人に当たるのが目的ではありませんので、その様に受け取られたのでしたらお詫びいたします。内容の通り意図は全ての国民を対象にしています。私は、個人が現世で助かるか否かに関心の位相は無く、社会精神とその性質の必然的な結果について論じています。また、投票性向や所属などで人を区別する事に意味を見出しません。)
>権力者や営利企業から自由、民主主義、また、安全を保障してもらおうとするようなメンタリティがあるという時点で日本人の民主感覚は終わっている、と思っています。
>一般国民の精神のあり方を変えなければ、首がすげ変わるだけで何一つ変わりはしない。
権力と人間の共同体としての社会は、本源的に起源が異なります。自然生態系に余剰が存在しないことから導かれるように、階級制と共に生まれた権力は、人の共同体からみれば外的なもので、歴史的にも社会が成立した後に外から来て暴力によって社会を支配したことを起源としています。
歴史的事実においても、原理的にも、社会の内部から最初の権力が自発的に生まれる事は決してありません。そのため、権力と階級制を持たない伝統的社会は、外部からの殺戮を伴う侵略を受けるまでは、数千年の間でも非常に安定しています。
先住民社会に対する植民主義的な侵略は、実は人類史を通して普遍的に行われた、権力起源の代表的事例なのです。
真理に忠誠を誓う哲学者、自然を愛する先住民、正義の心を持つ義人達は、全て、権力の存在自体を許さず、命を賭して闘う道を選び、歴史の既成事実には服従しませんでした。古代から未来永劫に伝承される精神的遺産の全ては、そのような人格が生み出してきたものです。
端的に表現すれば、権力と同化、同調、妥協する者は、時の審判には耐えられない、所詮は消えゆく者に過ぎないということです。
したがって歴史的世界において人格の質は、究極的に権力との関係で表されることになります。知性、勇気、公平さ、誠実さ、大きさ、優しさ、愛、これら総ての真偽が計られるのです。
特に卑しさと尊厳の違いは重要です。権力、資本、金銭と同化したプライドが如何に胡散臭いかは、深く理解しなければなりません。それは、卑しさの表現であって、決して、人の真の尊厳の在り方ではないのです。
古代古典の時代から未来に至るまで、この法則は、不滅にして普遍です。
人格の尺度は同様に、社会の質の尺度でもあります。
健全な社会は、権力の制限と、権力からの自立を志向します。これは、民主主義以前の問題で、一政治制度を越えた人間精神と文化の健全性の問題です。
財政的に逼迫すれば、行政は民生コストを削り、警察・軍事予算を増やすのを見ても分かる通り、国家は本来的に暴力的な存在です。行政の効率化の追求と小さな政府論の陥穽は、国家の衣を脱がし、暴力を起源とする本質を剥き出しにさせてしまうことにあります。したがって、行政を合理化するのなら、まず最初に公安機関と軍事組織の削減を優先しなければなりません。間違っても、社会保険庁や郵政事業などの民生部門の削減をしてはならないのです。民生部門の効率の良し悪しを問題にする事自体が論外です。
それが、暴力機関である権力と同居を強いられた社会の正しい選択なのです。
現東京都知事が、人を殺してはじめて国家と言えるのだと発言していましたが、本当の悪党は悪の本質を本能的に知っているものです。この発言を批判するよりも、この言葉の意味する現実を知った上で、具体的に権力制限の手段を講じなければなりません。
それでは、最も腐敗した社会とは何でしょうか。それは、最も卑しく腐敗した人格同様に、権力と同化した社会です。その様な社会の中では、人心の腐敗も一層進んでゆきます。
社会が権力化することは即ち、社会の暴力化を意味します。その究極がファシズムです。
ファシズムとは、権力の一形態を指すのではなく、社会の極限の堕落形態を表す概念です。
したがって、政治家批判をしてもファシズムの阻止にはつながりません。必要なのは、自らが成す社会それ自体への批判です。国民自身への自己批判が必要なのです。
戦中の日本を知れば判りますが、軍国主義は、財閥、政府、軍部だけでは一部を構成することさえできません。全国民を挙げてのまさに国民運動です。
そこにおいては、参政権の有無さえ何の意味もないのです。何故なら、軍国主義は代議制、議会を必要としないからです。
社会と権力が直に結合してしまえば、間に入るものなど必要なくなるわけです。
その意味で、ドイツがナチズムを権力の問題ではなく、国民の問題として、今日まで徹底した自己批判を続けているのは、ファシズムの本質を真に理解しているからです。日本国民には想像もできませんが、今でも、新聞に戦中の社会批判が載らない日はありません。
翻って日本国民の戦後はどうでしょうか。ここでは多くは語りません。
権力、資本に近づく事が利益であり、生きる術だという内面で出来上がった人格と社会に未来はありません。
この掲示板でも、特定の政権や政治家個人の批判は溢れていますが、本当に社会精神を批判する文を見る事はありません。この国民は、それを可能にする絶対倫理を持たないからです。人間関係の中での相対倫理しかない民族には、社会全体が従うべき普遍的規範を示す、人間存在の上位に位置する絶対概念で構成された文化が存在しません。
一人の不平不満分子も無く、総ての社会構成員が満足し幸福に感じていても、滅ぶべき社会は滅びます。未来の永続を決めるのは、社会内部の関係性ではなく、社会の質だからです。
それを知らない社会は、上は管理統制に励み、下は協調性と同調をひたすら求めます。最近流行の「KY」もその一つです。若い世代から出て来たこの言葉を見ても、この国民が如何に戦前から変わっていないか痛感できます。こんな言葉を、他の国民が口にするのを想像ができますか?その事にすら気付けない程に、日本民族は、今も閉ざされた世界に生きています。
協調性で何を行ってきたのでしょうか。協調性を持って、虐め、談合、汚職、人権侵害、労働争議権の圧殺、過労死の常態化、環境汚染、原発乱立、利権漁りによる財政破綻と、挙げればキリがない程の不正を蓄積してきました。
では、逆に協調性を持って正義を行った例が一つでもあるでしょうか?
考えるまでもなく、ありません。なぜなら、正義は一人で実行できるからです。巨悪は一人では決して行えず、例外無く社会犯罪です。行為者のみならず、それを可能にする精神環境・風俗が存在します。そもそも一人で行う悪など悪の内には入りません。
例えば、ヴェーダ・ウパニシャドの伝統から最古の仏典のスッタニパータにも、聖人の掟として「安易に友は持ってはならない。サイの角のように一人で歩め。」と、記述されているように、理学の伝統の無い日本には不在ですが、諸外国の文化の中心を成してきたメイン・カルチャーは、このような精神を持った人格によって生み出されて伝えられてきました。
そもそも、協調性を持って侵略戦争をする民が、本当の未来を手に入れるにはどうすればよいのでしょうか。
何が欠落していて、何が必要で、何を変えなければならないのでしょうか。
この続きは、後日にします。