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国体・政体二元論を超えるためには?
http://www.asyura2.com/07/dispute25/msg/537.html
投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 22 日 08:55:46: yYpAQC0AqSUqI
への超亀レスです。
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如往さんの言わんとすることは、おそらく、たけ(tk)の言わんとすることと同じなので、逐語的にいちゃもんを付けていきたいと思います。
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まず、タイトルの『国体・政体二元論を超えるためには?』の「超える」とはどういう意味なのだろうか?
これに関連して、尾高・宮沢論争というのを見つけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/尾高・宮沢論争 ・・ 簡単な説明
http://www.nn.iij4u.or.jp/~logos/cl20muraoka.nomosu.html ・・ 詳細な説明
これによると、尾高は
(a)「国体」をノモス(古代ギリシアの掟や習慣・法律の意味で、社会制度上の道徳的観念のこと、※1)の意味で使っている。要するに実質的意味の憲法の意味だ。
それに対して、wikipedia:国体(※2) では
(b)「国体(こくたい)は、天皇が統治する日本国の国家体制のこと」という説明になっていた。
この違いについて金森氏が、国体は本来ノモスの意味(a)であるが、明治憲法の天皇主権のタテマエに引きずられて、国体を天皇主権と誤解する(b)傾向があった、という趣旨の発言をしている(※3)。
つまり、「国体」という語が、二つの別の意味で使われており、一種のバズワード(意図的に曖昧な意味で使われるコトバ、※4)として使われていることに注意しなければならない。
「国体・政体二元論を超える」と言っても、ノモスの意味での国体(a)と政体の二元論を超えるのか、神話的妄想としての国体(b)を「超える」のか、によって答えが変わってくる。
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「政治学的には国体・政体二元論が終戦までの日本政治を考察する場合の論理的説明体系としては辛うじて有効」
司馬遼太郎の『この国のかたち』の中に、昭和5年以降、終戦までの間の日本を「別国」と呼んでいる(※5)。『統帥権』によって軍部が暴走していた時代は、本来の日本とは異なる「別国」だというのである。
「別国」の期間においては、国体=統帥権=軍部の独裁=政体であって、国体一元論だったのだと思う。つまり「別国」の期間においては「国体・政体二元論が・・有効」ではなかった。
「国体・政体二元論が・・有効」だったのは、別国より前の時代の法律理論においてであろう。
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「国体そのものは神話を淵源とする仮構」
ここでいう「国体」は、俗信のほうの「国体」(b)ですね。
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「何らリアリティーなきものと見做しています」
リアリティーの意味が問題。
俗信の内容のリアリティーは、ない。
俗信を信じていた人々がいたこと、今も一部の右翼は信じている(と公言している)ことは、リアリティーが在る。
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「国体に関する存在論的考察」
ヒトはモノである。ヒトの身体の中に《思いこみ》が在る。ヒトは《思いこみ》によって語り、行動する。
『国体』は《思いこみ》である。そもそも『憲法』も『憲法学』も《思いこみ》である。ヒトは『憲法』や『法律』や『神話』の《思いこみ》によって語り、行動する。ってな感じでよろしいでしょうか?
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「遣り取り・・(の)生産性」
考えよう・・。というか、たけ(tk)は、議論の「生産性」を考えるのは嫌いだったりします。
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「法理論的には寧ろ政体一元論の世俗主権論で捉えるべき」
実定憲法の解釈学としては、まあ、OK。政体論としては、国民主権、三権分立、で決まっていますね。
しかし、国民主権と、象徴天皇制の調整というのは日本国憲法の解釈学の問題でもある。もっとも、これも「君臨すれども統治せず」の立憲君主制で決まり。とも思う。
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「立憲君主制とも目される日本国憲法体制においては名宛人を特定し難い側面がある」
名宛人というのは、規制対象となる人々のことですか?
憲法の規制対象となる人々は統治集団であることは明らかでしょう?
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「憲法の本義」
って? 立憲主義以外にあるのでしょうか?
聖徳太子の「憲法」みたいな、国民に対する訓育という「本義」もあり得るか。しかし、「天皇主権のタテマエ」や「象徴天皇制」だと、国民に対する訓育が憲法という制定法の本義、名宛人につながるのか? 「つながる」と言っているヒトも居るのかな?
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「天皇主権のタテマエをとりつつ・・、そうした設定が通用するのは精々終戦までのことで、戦前の時点でその有効期限が切れてしまっていた」
そうとも思えない。
戦後政治における無責任性も、象徴天皇制を「天皇主権のタテマエ」にすり替えて、統治集団にとって都合の良い無責任政治を享受してきたからではないか?
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「気分というよりはよく謂われるように空気を読む政治といったほうが適切ではないでしょうか。日本人が何故そうした曖昧でファジーな状態を受容し、責任の所在が不明確なマネジメント・システムを設営してきたのか」
これは「天皇主権のタテマエ」だけが原因ではないだろう。しかし、「天皇主権のタテマエ」が一つの原因、もしくは、結果の一つであるだろう。
たけ(tk)が原因として考えているのは、論語の素読をやめたことではないか、と見ている。
江戸自体から明治の政治家は、論語・大学の精神を学んでいた。そこでは、《空気》に流されないことこそが君子たるゆえんと見なされていた。
しかし、君子の自律を勧める「修身」が、滅私奉公・忠魂玉砕の精神にすり替えられ、盲目的な忠魂主義が宗教的熱狂で流布されるに及んで、誰も《空気》に逆らうことができなくなった。
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「世俗主権と神聖主権の狭間における調整機能は日露戦争頃までは奏効したものの、太平洋戦争期には最早通用しなくなっていた」
太平洋戦争期というのは「別国」の時代ですね。
しかし、「別国」の前の時代でも、世俗主権と神聖主権の狭間に調整機能などなかった。
「天皇主権のタテマエ」では調整機能になりえない。
日露戦争頃までに問題が生じなかったのは、調整機能があったからではなく、憲法に調整機能がなかったにもかかわらず、問題が表面化しなかった、というに過ぎない。
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「本来戦を司る存在ではない天皇を軍神化するような過ちを犯したのか」
これは難問なので保留にします。
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「ここに至っては表向きには国体は殆ど形骸化し、あるいは歴史の地中に埋設されてしまった観があります」
否。それを復活させようという試みが、政府によってなされている。
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「国体とは全く無関係に国民が世俗政治の理想を追求していっても全く支障がない」
しかし、天皇崇拝の風潮はなくなったわけではない(※6)。
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「日本国憲法においては、「世俗主権」=「国民主権」であり、国民自身が憲法の実効性を自発的に担保していく任を負うものである」「我々国民は自分達が憲法制定権力を有することについてもっと真剣に考えなければならない」
そのとおり。
そのための一つの方策として、天皇崇拝の一部の国民に対しても、天皇崇拝から立憲主義にいたる思考様式を提供する必要がある。
たとえば、(天皇崇拝の一部の国民に対して)「天皇は、国民に対して、主権者として国政の最高責任を国民に授権した。だから、国民は自らを律して、主権者にふさわしい能力をもつように努力しなければならない」とかいう言説を用意しておくのは、どうだろうか?
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※1:ノモス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%82%B9
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※2:wikipedia:国体
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
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※3:金森氏の発言
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、昭和21年6月25日衆議院本会議答弁)
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※4:バズワード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89
バズワード(buzzword)とは、一見専門用語のように見えるがそうではなく、明確な合意や定義のない用語のことである。
「バズ(buzz)」という言葉は、もともと、蜂がブンブンとうなり続けている様子を表しており、そこから派生して、世間の群衆が噂話でざわめいている状況を表す言葉として使われている。つまりバズ・ワードとは世間、あるいは業界一般などの一定の一般的なグループの間で喧伝されてはいるが、その実態が明確ではない言葉を表している。
結果として、その分野に明るくない人にイメージだけを押し付けたり、「よくわからないが凄そうなこと」を想起させることを目的とした宣伝文句として使うことも可能であり、言葉だけが先歩きして広まることも多いため、事情を知らない多くの人は価値のある言葉として捉えてしまうことがある。
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※5:「別国」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0914.html
そもそも明治憲法は、三権が分立しているという意味では十分に近代憲法になりえているものだった。軍の統帥権は形式的ながら、三権とともに天皇がもっていた。
そこへ大正末期から昭和初期にかけて、統帥権が三権を超越するという陸軍の解釈が浮上した。
・・・
それは、昭和5年(1930)のこと、浜口雄幸が海軍の統帥部の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約に調印したときである。軍部・政友会・右翼は、これを「統帥権干犯」として、激しく糾弾した。「干犯」は北一輝の造語だった。
浜口は東京駅頭で狙撃され、死んだ。以降、昭和史は日本をみるみるうちに“統帥権国家”に仕立てていったのだ。
司馬はこのような日本をあえて「異胎」がつくった国と呼び、「別国」とも言ったのである。本来の日本ではない日本、という意味だ。
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※6:天皇崇拝の風潮がなくなったわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
昭和60年代に入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。 1988年9月19日に吐血してから翌年1月7日に崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティの派手な演出等が不謹慎であるという理由で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。
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