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(回答先: ↑上記本文の脱字の訂正:[誤]“いちゃもん”は歓迎したと⇒[正]“いちゃもん”は歓迎したいと <本文なし> 投稿者 如往 日時 2007 年 5 月 29 日 03:24:22)
たけ(tk)さん、こんにちは。
標題は“俯瞰的視点からなる探究と仰臥的視点からなる探究の整合”と換言することができ、さらに如何にしたらそれが可能かといった問いを含んでいます。おそらくそれは「思惟過程(意識)の対象化」のベクトルと暗合し、さらに最終的なテーマはEsの制御に帰着していくのではないかと推測しています。
暫し人間界に目を転じてみますと、政治改革においては這い回るが如くの遅々たる歩みを繰り返している人間の実態があります。ただし、そこには市井に棲む人々の営々たる暮らしがあり、束の間の平和や泥沼の戦の模様が織り込まれてもいます。
最早それは既存の宗教では捉え切れない問題であるとする地球物理学者の松井孝典氏は、人間圏の内部に駆動力を求めている“ストック依存型人間圏”の未来を憂い、宇宙から人間圏を望むような視点で地球に生きる人類の運命について考えていく必要があるだろうと述べています。
一方、conatusが分化(反対称)のエネルギーを伴なうことは宿命的だとロジェ・カイヨワは指摘しましたが、人類史はそれを飼い慣らすための戦いの歴史ではなかったかとそのように想えなくもありません。また、生命科学者の柳澤桂子氏は“戦争について、DNAレベルまで遡って深く研究して、戦争が起きる根本原因をつきとめ、防ぐ方法を多方面から研究することが必要であろう”(朝日新聞2004年7月27日(?)夕刊 「宇宙の底で」所収)と説いています。
巨視的視座による考察と微視的視座による考察の事例は他にも沢山あると想われます。しかし、私が目にするかぎりにおいては、それぞれの分野内やカテゴリー内で統合化(統一理論の構築)は試みられるものの、両者を統合しようとする試みの多くは文学的もしくは恣意的な視座に傾斜しがちで、科学的な見地をベースにした考察はなかなか進展していないようにも見受けられます。
固より私自身はこうした考察に必須である高度な専門性を具えているわけではありませんので、仮令ベクトルの様態を予想できたとしても、テーマをクリアしていくための術を有しない実情はまことにもどかしいかぎりです。しかし、少なくとも皇国史観やユダヤ・キリスト教史観を初めとする捏造史観(共同幻想)に振り回されるような思考停止の状態に陥ることを回避しつつ、極々個人的な営為としての思考実験を継続していきたいと考えています。
尚、上記は今回のアジェンダとは直接的な関係はありませんが、《たけ(tk)の思い込み》を読んでいくうちに、ふと浮かんで来たものです。サイトの内容について論評しようとしたつもりは全くありませんので、どうか聞き流してください。
また、会いましょう。
<参考にしたもの>
『地球文明の寿命』 松井孝典・安田喜憲著 PHP研究所 2001年
『反対称―右と左の弁証法』 ロジェ・カイヨワ著 塚崎幹夫訳 新潮社 1973年
『戦争論——われわれの内にひそむ女神ベローナ』 ロジェ・カイヨワ著 秋枝茂夫訳 法政大学出版局 1963年
『聖なるものの社会学』 ロジェ・カイヨワ著 内藤莞爾訳 筑摩書房 1951年