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(回答先: 解放とは全然違う次元なのでしょうか? 投稿者 haru 日時 2007 年 5 月 14 日 21:37:20)
haruさん今晩は
こうして見知らぬ方と、阿修羅板を通して語り合える事に感謝いたします。
>また、こだわり、思い込みにしがみつくというのも、根気やしぶとさ、忍耐などが関与してきます。こだわりを持てば持つ程に、その対象に対する執着心は力を増します。
そうですね。最近、「こだわりの○○」なんてキーワードがあちこちに見られますね。
並々ならぬ執着心と根気で、こだわりの物を片っ端から集める「コレクター」も増えていますね。
でも、そういったコレクターの方々の中にも「自分の死後は蒐集物を美術館に寄付したい」とか、「後々の人達にもこの素晴らしいコレクションを残したい」と人生の最後に、命の次に大切なコレクションを「解放」される方もいらっしゃいますね。私はこれが出来る方こそ「真」のコレクターだと思います。
>私はこう思います。
>自分自身を解放することとは、自分自身にしかできない。
>そして、解放とは、円満と至福である。
>しかしここに落とし穴があります。
>円満、至福と快楽、満足との違いです。
私も全く同感です。「私」を解放出来る者はこの世で「私以外」にはありえません。
しかし、ここで言う「私」は、魂に乗っ取った「大きな私」であって、「自我」の「私」ではありません。
どの人間にも例外なく必ず「大きな私」と「小さな私」の2つの「私」が住んでいます。
「大きな私」は、「魂」の直観から来る「広い目と心」「解放と自由」の精神を持った私です。
「小さな私」は、「自我」により「他人の目や他人の価値観」を意識した「狭い目と心」「執着心」を持った私です。
常に人間はこの2つの「私」を持ち、その時々の出来事に合わせて(気分により)使いわけています。
haruさんのおっしゃる落とし穴とは「小さな私」である「自我」が望む「快楽」や「満足」を求める事です。
これは「私自身による私の為の」自己満足です。
それに比べて「円満」や「至福」は、「大きな私」である「魂」が、「私と私以外も含めた全ての為の」調和と解放、自由へ向けたおおいなる精神です。
>個々人に差があればこそ、この狭間が気になりますね。
どちらの「私」にベクトルを向けたら気持ちが良いか。どちらのベクトルに心惹かれるかでしょうね。
メディアによる「経済最優先」の現代は、どうも「小さな自分」へ関心を向けるべく、うまく仕組まれていますね。
これに「呼応」するもしないも自分が決める事ですね。
これからは「他人」や「環境」や「政府」のせいにしない。依存しない。転ばぬ先の杖は無い。
自分の責任において「私」が「私の志」に沿って選択し行う事で、混沌とした今の世の中を生き抜く道標が出来ます。
この道標さえあれば、「言い得ぬ不安」から我々は解放されるでしょう。
お金や物、権力では道標にはなりません。それどころか失う「不安」に苛まれるでしょう。
どうせ人間は必ず最後には死にます。
あの世にもっていけるのが「物」では無く「経験値」だけだとしたら、私は物なんかに執着してる暇は無い。
少しでも自分を「解放」し、「昇華」したい。それがここにいる意味だから。
と、いいたい所ですが、まだまだ自分もそこまで突き抜けてはいません。
ただ、いづれはそこへ到達すべく、ベクトルはそちらへ向けております。
来るべき「ブレイクスルー」へ向けて。