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(回答先: 私の弁証法理解 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 3 月 04 日 18:22:19)
つまり、「都知事候補としての浅野氏は石原と関係なく存在しているのではない。」という事です。反石原として登場した浅野氏の都政は反石原的なものになる可能性が高くそこに我々は主体的に投機すべきです。浅野氏の政策と石原の政策を別個に調べその後にどちらがいいか判断するというのは弁証法的理解ができていないという証拠です。
今の浅野氏は石原に勝とうとしている浅野氏なのであり以前の浅野氏ではありません。
この変化に投機する事こそがよりよき政治実現の道なのです。
浅野氏自身にも自分がどうなるのかは分かっていないのです。
全ての存在を変化し動き続けているものとして捉える事も弁証法的世界観の重要な内容です。
対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない
マルクス主義における弁証法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、ヘーゲルは「頭でっかち」だと考え、彼の考えを「地に足をつけた」ものにしなければならないと主張した。すなわち、ヘーゲルの観念論による弁証法における観念の優位性を唯物論による物質の優位性に反転させることで、唯物弁証法(唯物論的弁証法)またはマルクス主義的弁証法が考え出された。この弁証法を歴史の理解に応用したものが、史的唯物論(唯物史観)であり、この見方は、マルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキーの著作に見て取ることができる。この弁証法は、マルクス主義者の思想の核心的な出発点となるものである。
エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。
「量から質への転化、ないしその逆の転化」
「対立物の相互浸透(統一)」
「否定の否定」
これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、
2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。
つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。
3.はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。
スターリン主義における弁証法的唯物論は、政治的イデオロギーの側面が非常に強かったため、だんだんと教条主義的、また理論的に破綻したものへと変わって行った。ソビエト連邦の哲学者の中で最も有名な人物は、イバルド・イリエンコフである。彼は、観念論的偏向から解放されたマルクス主義的な弁証法の研究を続けた。