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(回答先: Re: 不完全な社会的義務に対して、改善する意思を持たねばならない。 投稿者 初哲学者 日時 2007 年 1 月 16 日 21:45:57)
初哲学者さん、こんにちは。
毎度レスをありがとうございます。
私の方こそ、至らない思考を披露させていただきまして大変恐縮しておりますが、対話を重ねる毎に自分の思考の整理が出来るようで、、
手前味噌ですが、大変ありがたく感じております。申し訳ありません。
>haruさんは、少しいぶかしんでいるやも知れません、それはひとえに私の駄文のせいです(言葉の限界を感じるのはこういう時ですね)。
>つまり、haruさんは私が義務という枠をはめたがる側であり、それによって正当な反論・反対ができない側が作られて、義務を果たすべきという主張をする私は足かせをはめたがる側の代弁者ではないかということ(違ったらごめんなさい)ではないでしょうか?
いえいえ、決していぶかしんではおりません。
>たぶん、認識は違えど立ち位置は同じではないかと思いますから。
同じであるというところから始める対話は、前向きに進歩的な解決に向かうのではないでしょうか?翻って、お互いの差異を基とする対話は、否定的、悲観的なものになってしまう傾向があるように思います。先程も述べましたように大変ありがたく読ませていただいております。
前回の頂いたレスで終わりの感がありましたが、少し気がついた事を書きたいと思います。質問等ではないので、特にレスを頂ける事に期待はいたしません。
社会というものは、そもそもが“人”に対して“同じ人間である人”が、一定の行動を求める事、あるいは期待する事によって成り立っているのだと思います。そして、それに反する行為に対して罰があり、差別があり、又、中傷その他否定的な行動、言動が生まれるのだと思います。そして、義務という概念もまた多くは伝承として、あるいは新たに作られた法規、風潮によって人が人に対して期待し、求める行為であるのだと思っております。
表題で示しましたように、私は“凸(でこ)と凹(ぼこ)の関係”に注目いたしました。
求める側が、凸であり、受け入れ履行する側が凹であります。
さて、人間の争い事は往々にして、凸同士のものが多数を占めます。
現代になって、ニュースで報じられるものも殆どが凸同士のものです。
例えば、子供に対する虐待、夫婦間の殺人、あるいは国家間の戦争、摩擦、、、。
凸同士では、世の中どうしたって成り立たないのです。
子供は自由奔放です。上からモノを言っても中々云う事は訊かないものです。
親は時に妥協せざる負えなくなります。凹になる瞬間ですね(笑)
ペットなんかもそうですね。人間の思うようにはやってくれません。
同じ事は全ての事象に於いて成り立ちます。
そして、人は対応する相手によって凸になり、凹に成ります。
殺人は悪い事であると目くじらを立てる人々が、なぜかアメリカのやっている戦争での理不尽な殺戮に対して許容してしまう、、、。
これも凹に成った瞬間ですね。
義務やルールは人間社会の全てではありません。
また、そうであってはいけないのだと思います。
なぜなら、それらは全て不完全だからです。
私は、凸と凹はある意味普遍的な真理だと思っております。
失礼いたしました。