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(回答先: 確かに、国土は負けたが、精神的には負けていなかった。 投稿者 忍 日時 2008 年 1 月 26 日 12:13:17)
あんさんは軍隊の人間か?
精神論は小さな駐屯地の中でおおきなこえで暗証しとけや
大東亜会議の枝葉末節をとりあげて、わーわー騒ぐな
世界中がそういう流れのなかで日本もそう行動しただけや
日本軍が最初東南アジアに展開した時期と日本兵の規模を考えれば
ピンポイントにイギリス軍やオランダ軍を早期に降服させる理由があった
イギリスやオランダ軍の本格的な抗争にあえば、元も子もあらへんからな。
戦術的にはベストな選択やおもうがな
それだけのことやで。
独立に影響はあった、それだけや
占領戦略を速やかに行うための、一つの戦術が大東亜会議で民族独立に影響があった。
せやろ?でもそれは世界のはやりを追いかけただけの会議も理解しているやろ?
独立反対派を抑え込むにも有効やろ。
えさだよ、戦術だよ ”独立”という名の
美名だよ大日本帝国によるプロバガンダだよ策略策謀を影響といえばかっこいいが
あんさんが、主張するような事実はない。のが現実や
影響はガンジーのほうが上やで、あんさん、理解しとるか?
日本が、アメリカのモラルエンバーゴを無視するためにも必要な物資
ゴム、石油、鉄鉱石、を東南アジアに求めて打った戦略を
わざわざ、 針小棒大にとりあげて言うな、錯誤も甚だしい。
世界で、はやっていたのが独立運動でガンジーの反対バージョンが日本や
アメリカに占領されて、手も足も縛られて、精神論?
頭が悪すぎる
アホヤで
連合艦隊返せ。
小さい常識で一生ほざいてろ
1 戦後世界の出発
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3 大戦後の東・東南アジアと南アジア(その2)
カンボジアでは、1945年3月にシアヌーク(シハヌーク、1922〜、位1941〜53)王が日本の占領下で独立を宣言した。戦後、1949年11月にフランス連合内での独立が認められ、1953年11月には完全独立を達成した。その後、シアヌークは首相(任1955〜60)・元首(1960〜70)として王政社会主義を唱えて国内開発に努め、対外的には中立政策を進めた。
ラオスも、1945年3月に日本の占領下でラオス王国の独立を宣言した。日本の降伏後、国王は一時追放されたが、1946年4月に王国が復活した。
その後、1953年11月にフランス連合内での独立を獲得し、1954年のジュネーヴ協定で完全独立が認められた。しかし、左派(ラオス愛国戦線、パテト=ラオ)・中立派・右派の対立で政情は安定せず、1959年には内戦に突入した。
1942年に日本軍に占領されたオランダ領東インドでは、スカルノ(1901〜70、インドネシア初代大統領、任1949〜67)らが日本の軍政下で日本に協力しつつ、オランダからの独立運動を推進し、日本の降伏後の1945年8月17日にインドネシア共和国の独立を宣言し、3世紀以上にわたるオランダの支配から脱した。
しかし、オランダはインドネシア共和国の独立を認めず、武力で独立を阻止しようとしたために、以後4年間にわたるオランダとの独立戦争(1945.10〜49.12)が続いた。
その結果、オランダはハーグ協定(1949.11)で独立を認め、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立した。しかし、オランダがニューギニア島西部(西イリアン)の割譲を拒否したため、インドネシアは国連に提訴した。1962年1月には武力衝突が起こったが、西イリアンは1963年5月にインドネシアの支配下に入った。
この間、スカルノはアジア=アフリカ会議(1955.4)を主催するなど、非同盟諸国のリーダーとして活躍した。
イギリスの植民地であったマレー半島は第二次世界大戦中は日本の軍政下に置かれたが、戦後の1957年8月にイギリス連邦内の自治領として独立し、マラヤ連邦となった。
そして1963年9月にはマラヤ連邦とシンガポール(1946年にイギリスの直轄植民地、1959年にイギリス連邦内の自治州となる)・イギリス領ボルネオ(サバ・サラワク)が合併してマレーシア連邦となった。
しかし、1965年には中国系住民が多数を占めるシンガポールがマレーシア連邦のマレー人優先政策に反発してマレーシア連邦を離脱し、完全独立してシンガポール共和国となった。
インドでは、第二次世界大戦が始まると、インド総督が国民会議派の反対を押し切ってインドの参戦を宣言した。その一方で、大戦中に二度にわたって(1940.8、1942.3)戦後自治領の地位を保障することを約束した。
しかし、国民会議派のガンディーらは1942年8月にインドの即時独立を要求し、即時独立が拒否されれば不服従運動を始めることを決議し、ガンディー・ネルーら国民会議派の指導者多数が逮捕された。
第二次世界大戦後、独立運動は軍隊にも波及し、1946年2月にはボンベイの水兵反乱が起こり、労働者のストライキと反英運動が激化した。こうした状況の中で、アトリー労働党内閣は1947年2月に、翌年6月までにインドから撤退することを約し、1947年6月にはインド・パキスタン分離独立案を提示した。
すでに大戦中の1940年にはジンナーに率いられたイスラム教徒がパキスタンの分離独立を主張し、以後ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立がますます強まり、1946年8月には両教徒による大規模な衝突が起こっていた。
1947年7月、イギリス議会はインド独立法を可決した。そして1947年8月15日、インドはヒンドゥー教徒が多数を占めるインド連邦とイスラム教徒が多数を占めるパキスタンに分離して独立した。
独立後もヒンドゥー・イスラム両教徒の対立が続き、各地で暴行・虐殺・掠奪事件が多発した。また両国間で二つに分けられたパンジャーブ地方やベンガル地方ではそれぞれの国に移動する移住難民が生まれ、その数は両国合わせると1500万人に達すると言われている。
統一インドの実現とヒンドゥー・イスラム両教徒の融和を願うガンディーは両教徒の紛争の激しい地方に行き、その融和を説いて回ったが、1948年1月30日にニューデリーで急進的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺された。
インド連邦では初代首相ネルー(任1947〜64)のもとで、1950年1月に共和政・議会制・連邦制を規定し、カースト制による差別の禁止・不可触賤民制の廃止などを定めたインド憲法が施行され、インド連邦共和国となった。
一方、パキスタンは東パキスタンと西パキスタンに分立して独立したが、翌1948年9月には建国の父ジンナーが死去し、政情は不安定であった。その後、1956年3月には新憲法が施行され、パキスタン=イスラム共和国となった。
セイロンも1948年2月にイギリス連邦内の自治領として独立し、1972年5月には新憲法を制定し、国名をスリランカ共和国に改称した。
第二次世界大戦中に日本に占領されたビルマでは、アウン=サンらが日本軍の協力を得て独立の達成を図り、1943年8月にはビルマの独立を宣言した。
しかし、アウン=サンはやがて反ファシスト人民自由連盟を組織して(1944.8)抗日運動に転じた。アウン=サンは戦後イギリスと交渉して独立の達成に努めたが1947年7月に反対派によって暗殺された。
その後、1947年12月にイギリス議会はビルマ独立法案を可決し、ビルマは1948年1月にビルマ連邦共和国として完全独立を達成した。
ビルマ独立と同時にウー=ヌー(1907〜95)が初代首相となったが、1962年のネ=ウィン将軍のクーデターで失脚した。
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戦争と石油 (1) 〜太平洋戦争編〜
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