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(回答先: 2、不破哲三と志位和夫との陰湿な関係実態 (P.100〜102、全文)(筆坂秀世著『日本共産党』) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 6 月 05 日 19:24:49)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/fudesaka.htm#m23
3、常任幹部会員・参議院議員筆坂秀世にたいする二段階処分 (P.18〜22、全文)
私は二〇〇三年六月、共産党のすべての役職を罷免され、参議院議員を辞職することになった。なぜそうなったのかについての詳細な経緯は、『週刊新潮』(二〇〇五年九月二九日号)の手記であきらかにした通りである。この手記に、事実関係の誤認も、偽りも一切ない。
問題の日はさかのぼって五月二六日だった。私は、私の秘書、後に私を訴えることになる女性の三人で焼肉店で飲食したあとカラオケボックスに行った。そこで三人で歌い、その女性の同意も得て何度かダンスを踊り、デュエットにも興じるなど、それぞれに楽しい時間を過ごした、つもりであった。ところがその後、その女性から、ダンスを踊った際、身体を強く抱きしめられた。デュエットの際、肩に回した手が腰に下りてきた。党の大幹部にこういうことをされ大変ショックを受けた″、という趣旨の訴えが党になされた。セクハラだというわけである。六月五日に志位和夫委員長、市田忠義書記局長、浜野忠夫副委員長の三人から調査を受け、事態を初めて知った。
私は、三人に対し、チークダンスを踊ったこと、デュエットで腰に手を回して歌ったことは事実だと認めた。これ以上でも、これ以下でもないからだ。同席した秘書も、その女性が、私が「帰ろう」と声をかけるまで、大いに楽しんでいたと証言している。それがなぜセクハラという訴えになったのか、今もって不可解というしかない。
だが、当時の私は党の最高幹部の一人であり、参議院議員でもあった。背後に何があったのか知る由もないが、こういう訴えを受けること自体、軽率、失態のそしりは免れ得ないと考えた。だから事実関係は率直に認め弁解は一切しない、その処理は党の判断にすべて委ねる、という態度をとることにしたのだ。六月九日、私も出席した常任幹部会(記録係を入れない秘密会議であった)での処分は「警告」ということであった。
ところが、六月一四日に一枚のファックスが書記局に届いた。そこにはセクハラ議員は自民党だけではない。共産党の最高幹部にもいる。それが甘い処分で済まされようとしている。甘い処分で済ますなら、七中総を機に世間に公表する″という趣旨のことが書かれていた。一種の「脅迫状」である。秘密会議のことが漏れているうえに、開催が迫っていた第七回中央委員会総会のことを「七中総(ななちゆうそう)」という党内用語で呼ぶなど、あきらかに党内からだと判断できるものであった。これに慌てた共産党指導部は、一六日の常任幹部会で、急遽「警告」から「罷免」に処分内容を変更した。
この変更を一七日に聞いた私は、それも即刻受け入れた。どう弁解したところで私の失態が原因なのだから、最高幹部の一人として、党への打撃を少しでも小さくしたいという思いが強かった。国民の期待を裏切ってしまうことは痛恨の極みであったが、その政治責任を明確化するのは当然だと考えた。もちろん生涯最大の無念であった。
しかし一方では、生き恥をさらさぬため死を真剣に考えた。妻にも話せなかった。ホテルにこもって妻や子供に遺書も書いた。だが死ねなかった。明後日に記者会見で発表されるという、文字通り最後の最後になって、妻に「罷免、辞職」の決定や事の経過を伝えた時、やっと生きていく決心、この重荷を生涯背負っていく決心がついた。一連の件で私が一番辛かったのは、公職にあったものとしての説明責任を果たすことを、党から厳禁されたことだった。実は「罷免、辞職」の決定が市田、浜野両氏から伝えられた時、私自身が辞任の記者会見をせよという指示もなされていた。私は国会議員として、説明責任を果たすことは当然と考え、この指示を了承した。逃げ隠れするような無様なことだけはしたくはなかったからだ。
ところが、一八日になると、市田氏から「指導部(不破啓三氏)の判断で記者会見はしなくてよい」という変更指示があった。記者会見をして色々と説明することは「事態の状況描写」をすることになりかねず、その結果、二次被害を生むおそれがあるとの理由であった。私の口は封印されてしまった。除名覚悟で記者会見を強行するという手段もとりえたが、当時の私は精神的にも追い詰められ、そこまでの判断はできなかった。
結果はどうであったか。かえってさまざまな指摩憶測(しまおくそく)を呼び、ここには到底書くことができないような、事実無根の記事があふれてしまった。指導部の判断が二次被害を生み出したのである。世間の輿味本位のたくましい想像力を助長しただけであった。それだけではない。私は“雲隠れ”という批判まで受けた。事情を知らない党内からすら、「なぜ記者会見しないのか」と批判され、「卑怯者」という烙印を押されてしまった。当然の批判であろう。ついに最後のプライドまでズタズタにされてしまった。私は、退職・離党する際、志位氏に「このままでは私は生ける屍」だと言った。志位氏ならわかってくれるだろうと思った。二〇〇三年八月に私が党職に復帰したとき、「辛かったろう」と目に涙を浮かべて激励してくれた唯一の幹部が志位氏だったからだ。
私は、記者会見をさせてくれるよう強く要求し続けたが、ついに認められることはなかった。共産党が私の口を封印したのは、相手の女性の二次被害を恐れてなどではない。「脅迫状」に屈して、処分を変更したことへの批判を恐れてである。浜野氏自身はっきり私に述べた。「脅迫状」を出した人物が、「もし本当に公表すれば、常任幹部会は甘い処分をしたと批判される。だから罷免に変更した」と。一切事実関係をあきらかにしない共産党の態度を、メディアは「共産党の秘密体質」と批判したが、「幹部の自己保身体質」も付け加えなければならないだろう。
程度の差こそあれ、プライドを持たない人生などありえない。そうでなければ生きてはいけないだろう。私がそれを取り戻すためには、共産党からはめられていた猿轡(さるぐつわ)をはずさなければならなかった。私は離党した。
党の要職を離れたことによって、いつしか共産党という存在と客観的に向き合うようになった。そうすると、これまでとはまったく違う視点で物事が見えるようになってきた。敢えて見ようとしなかったものから、目をそらさないようになった。これまで自明のこととし、また当然視していたことに多くの疑問を持つようになった。「恥を言わねば理が聞こえぬ」という。これまでも恥多き人生だったが、今後もっと恥をかくのかもしれない。それでも私は、新しい眼で世界と日本を見つめたいと思う。そうすれば、必ずこれまでとは違った世界が広がってくるであろう。どんなに小さな力であったとしても新しい働きかけができるだろう。
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