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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu138.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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アメリカの知的産物を振り返ってみれば、もう文学といい、
芸術といい、学問といい、アメリカ的なるものはなきに等しい。
2007年2月16日 金曜日
西部邁
◆アメリカの日本改造計画―マスコミが書けない「日米論」 巻末特別インタビュー 西部邁
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4872577442.html
◆常に「アウトサイダー」であるアメリカの空虚
西部
その問題のイントロダクションとして言っておきたいことがあります。つい一〜二年前に、ある大官庁の元東大生が、何年かのヨーロッバ留学から帰ってきて、「ぜひ会って話したいことがある」と言うので聞いてみたら、「西部先生の言っていることはヨーロッバ生活でよくわかった」と。
その理由は、ヨーロッバでは「アメリカ」が話題に出ると、女子高生でさえ肩をすくめてみせるというんです。ヨーロッパ人は外交の場面では、もちろんそんな態度はめったに取らないけど、「ああ、アメリカには困ったもんだ」というのがヨーロッパ人の本音なんですね。
これは、決して僕の反米気分で言うことではなくて、これはアメリカ人もかわいそうなところなんです。僕は日本人といっても北海道人ですからね。北海道なんかいくら頑張ったってダメなんですよ。僕が頑張ろうが、鈴木宗男(衆議院議員)が頑張ろうが(笑)。北海道人っていうのは、もともと内地の食いつめ者が流れて行ったところで、犯罪者もいる、芸人もいる、そういうアウトサイダーたちが移住した場所ですから、言ってみれば北海道は日本の「アメリカ」みたいな場所なんです。
したがって、僕は北海道人として、歴史や文化、もっと言うと人間の良識としての伝統意識や感覚というものがアメリカ人に欠けているのは、アメリカ人が悪いからではなくて、これはもうアメリカの宿命みたいなものです。アメリカというのは、悲しいかな、そういう国なんだと見なさないといけないわけなんです。
その証拠に、アメリカの知的産物を振り返ってみれば、もう文学といい、芸術といい、学問といい、アメリカ的なるものはなきに等しいんです。一九世紀にヨーロッバと隔絶する形でアメリカ的なるものが産声を上げたときに、アメリカのピューリタニカルな精神とか、あるいはアメリカ大陸という巨大な自然の中で、人間が生きるための一種の自然主義とか自然崇拝とか。
ーー森での一人暮らしの記録をまとめたヘンリー・ソローの『ウォールデン森の生活』(邦訳・宝島社、二〇〇六年ほか)のような……。
西部
そうそう。そういうものはアメリカ独自ですけど、いまとなれば歴史の試練に耐えられるようなものではない。そして、ヘミングウェイもフィツツジェラルドも、アメリカ文学の巨匠はアメリカ社会ではアウトサイダーですね。だからこそ、ヘミングウェイはパリに逃れざるをえなかったし、最期は猟銃を口に突っ込んで自殺せざるをえなかった。
フィッツジェラルドもアル中で死なざるをえなかったっていう、そういう社会でしょ? ジャズなんかも黒人、アメリカ内部のマイノリティが持ち込んだものです。ですから、アメリカのマジョリティ、いわゆるワスプの正統派っていうのは、世界を感動させるようなものは、ほとんど何も残してこなかったんです。
◆「冷戦構造」は左翼同士の内ゲバにすぎない
ーーそれはいったい、なせなんでしょう?
西部
やっぱり歴史の基盤がないからだというのが、その回答になると思うんです。まず、そういうふうにアメリカを見るという常識がなかったんですね。戦後、敗戦処理で吉田茂(元総理)たちが、ます負けっぷりをよくしようと、アングロ・サクソンを見本としていけばうまくいくだろうと考えたのは、いかにも迂闊だったんです。
アングロ・サクソンなんて簡単に言うけれども、やっぱり僕はイギリスのアングロ・サクソンとアメリカのアングロ・サクソンはどこかで通底はしているし、現在で言うと国際政治力学の中でブッシュとブレアは固く手を握っているけど、やっぱり国家の歴史を考えたら、大きく隔たっているものだと思います。.そのことを確認しなきゃいけない。
そのことを、実は吉田茂も、最近でいえば岡崎久彦たちも(笑)理解していないんです。やっぱりヨーロッパとアメリカの隔たりということを、簡単に言うと歴史感覚が豊富か、貧困か、ということの致命的なものを理解していないんだと思うんです。だから、結局のところはアングロ・サクソンと言いながら、アメリカがアングロ・サクソンの中の一種の精神的奇形児であるということがわからないまま、日本人はGHQ方式というものになびいたということなんです。
だから、安倍晋三君が憲法改正とか教育基本法改正とかを調って総理総裁になった、そのこと自体は結構なことだけども、あの連中たちも改正問題の真髄というものを少しも理解していないだろうと僕は思うんです。
もちろん、憲法第九条第二項、例の非武装・非交戦を改正するのは当たり前のことだし、自衡隊を国軍として認めることも当然ですけど、それ以上に大事なのは、やっぱり憲法前文や第一一条、一二条、一三条の人権至上主義、自由主義、個人主義、そういう歴史的前提なきところに、人間の権利、自由、個人の存在というものをアプリオリに想定するアメリカニズム、それがいまの憲法にも教育法にも、色濃くどころか一色で塗りつぶされている。そのことに対する批判精神というものが、あの連中たちにはない。
でも、あの連中たち、つまり、自民党御一党だけど、あの連中たちを批判してもしょうがないわけ。日本国民にもなんにもないんだから(笑)。
さしあたり、GHQ方式の根本思想というのは、もちろんその主流が流れ者のニューディーラーたちの、政府が関与するといういわゆるソフト・ソーシャリズムであったわけですが、多くの人たち、岡崎久彦のような人たちのように、ルーズベルト時代のソフトソーシャリズムなんか昔日のものになったから、いまのアメリカがまともな国だなんて、到底言えるわけがないんですよ。
これ、僕の昔からの持論なんですけど、二〇世紀後半の冷戦体制の本質というのは、歴史破壊の旧ソ連と、歴史不在のアメリカの、要するに左翼同士の内ゲバにすぎなかった。
社会主義が登場する以前、フランス革命(一七八九年)のときに国民公会の左側に座ったやつらを「レフト」と呼んだわけだけど、簡単に言えぱ、個人の自由とか理性、科学とか合理性といったものを崇拝して、それさえあれば歴史なんかは旧体制にすぎないから、これを破壊するのが進歩だと構えた人たちです。それをレフト、左翼と呼ぶわけです。
そういう意味では、アメリカもソ連も実は左翼なんです。たしかにニューディーラーたちのソフトソーシャリストは姿を消したかもしれないが、アメリカの国民精神の根本において、やっぱり歴史不在のところに巨大な社会的実験として構造改革なるものを仕掛けてみせるという、その精神においては、ニューディーラーたちは、たまたま大恐慌の時代的制約下に出てきたわけではなく、アメリカの体質そのものでもあるわけです。
そう考えたら、GHQ体制というのは、単に占領処理の政治技術の問題ではなく、もっと深い、アメリカニズムの体質そのものなんだと思います。ここまで抱きすくめられたら簡単には振りほどけませんけど、せめて先輩たちが振りほどく仕草ぐらいしていれば、われわれの子孫たちも鍛えられるだろうくらいに僕は構えたいと思っているんだけど。(P300〜P303)
◆現代のネオコンは、世界革命を狙うトロッキストと同根である!
ーー誰が書いていたか忘れたんですが、アメリカは第一次世界大戦では帝政ドイツの皇帝独裁主義と戦って勝ち、第二次世界大戦ではナチス・ドイツや軍国日本のファシスムと戦って勝ち、東西冷戦ではソ連の共産主義と戦って勝ち、いまはイスラムのテロリズムと戦っているんだと。つまるところ、アメリカが敵対するイデオロギーを倒すためには戦争=暴力しかないという認識が、やっぱリアメリカ自身にもあるんですね。だから、ネオコンやブッシュは、突然変異でもなんでもなくて、たまたまアメリカ史の回り舞台の上でそういう役回リを演じているだけなんですね。
西部
そうなんです、しかも、おもしろいことに、アメリカのネオコンの創始者アーヴィング・クリストルは紛れもなく第四インターナショナルの共産主義者、トロツキストだったんですよ。僕は四五年か四六年くらい前に共産党と喧嘩していたころ、アーヴィング・クリストルの文献がタイプ印刷で東京にも流れてきたんだよ。
ソ連の第三インターナショナルはスターリンで、それに逆らったレフ・トロツキーの第四インターナショナルがあって、その首領の一人がアーヴィング・クリストルです。結局、いまのネオコンの世界観、人間観は、やっぱり左翼過激派のトロキツストのそれと同じなんだよ。しかも、トロツキーは世界革命、それも永続革命を唱えたわけです。いま、ブッシュが言っている全世界のアメリカ的民主化は。
ーーまさに革命思想ですね。本来、日本の保守であれば、それに対して強烈な拒否反応、自らの固有の価値観が否定されるのですから、本能的な反発を感じるのが保守なら当然だと思うのです。しかし、日本の「保守」がブッシュのイラク改造を臆面もな<支持している。これは実に不可解です。どうして「イラクの伝統、固有の価値観を専重してやれ」という声が日本の保守から出てこないのか?
西部
だから、アメリカが左翼国家だということは、そういう形で日本人の脳をおかしくしているんだよ。アメリカが日本に迫ってきた構造改革という言葉からくるビジョンだって、実は左翼的なものなんです。なぜかというと、おおよそ歴史感覚のある国々において構造というと、それは歴史の構造のことなんです。
だから日本語の構造、たとえば神道イズムの精神構造とか、そんなものは改革できるどころか、その構造の中にわれわれは存在していて、それをどう応用するかというときに「構造」という言葉を使うわけです。それを改革できるものだと思っているわけですよ。
まともな歴史感覚を持った国民だったら、言葉もきちんと使い分けるべきです。英語で言うとストラクチャーではなくシステム、制度改革という言葉なら、僕はありうると思う。そういう言語感覚の狂いは、いすれ巨大なイデオロギー上の狂気となって立ち現れるんだと思う。
たとえば、自由主義という言葉だってそうなんです。一九五〇年代の半ばにロンドン大学のハイエクが、自由主義者だという触れ込みでシカゴ大学に招かれたんです。それでシカゴに来てみたら、ミルトン・フリードマンをはじめとする市場原理主義的な自由主義者たちが待ち構えていたのにハイエクがびっくり仰天して論文を書いているんです。
自由主義という言葉自体が、アメリカとヨーロツパではほとんど正反対なんです。アメリカでは「自由は素晴らしい」ということになるでしょ? ところがヨーロッバの言語感覚からいうとリバタリアン、自由主義者というのは放埓、無軌道な不逞の輩どものことなんです。
同じことがコンサバティブ、保守主義という言葉にもあって、アメリカのコンサバティブというのは個人主義を守ることで、ヨーロッパのコンサバティブというのは、個人は共同体の中でしか存在しえないんだから、共同体の歴史感覚をコンサーブせよというものなんです。ほとんど一八○度狂っているんです。それを日本人が、アメリカの毒水を飲んだわけです。
だから言っておくけど、日本の自称「保守派」ね、これはもう、ほとんどすぺて、やっぱりヨーロッパとか日本の本来の保守から言えば、むしろ非常に倒錯した、保守主義者にあらざる者たちが保守を名乗っているんです。
彼らの言う保守というのは、しょせん現状維持です。現状維持は、それ自体は社会が健全なら大事なんです。現状がまともなら維持したほうがいいんですが、残念ながら、いまの日本のす現状とは、アメリカに擦り寄って守ってもらえば安全でやっていけるだろうという類の「現状」でしょう。
僕だって、安全と生存、これ、自分にとって大事な価値だけど、同時に自尊、自立も大事なわけでしょう。 (P308〜P310)
(私のコメント)
このシーズンになると音楽のグラミー賞とか映画のアカデミー賞などが話題になりますが、最近のアメリカ音楽とか映画といっても浮かんでくるものがない。今年はやったヒット曲も知らないし歌手も浮かんでこない。FMなどではビヨンセがどうのこうの言っても何の事か分からない。映画にしても今年見たアメリカ映画は「硫黄島からの手紙」ぐらいだ。
西部邁氏が言うようにアメリカという国はヨーロッパから追放されたり食詰めて行った人たちが作った国だからアウトロー的な国家でしかない。歴史も伝統も無い野蛮な国であり、だから日本に対しても構造改革しろなどと平気で言って来る。彼らの本音としては日本をアメリカみたいな国に改造したいという事らしい。
しかしそんな事は、私のような伝統的保守主義で民族主義的な者にとっては許しがたい事であり、ヨーロッパの保守主義と共通するものがある。「構造」を改革しろということは我々の言葉や宗教までも変えろという意味も含まれているようですが、とんでもない事だ。
小泉内閣では皇室典範を改正して2600年続いた天皇制まで変えようとしたが、さすがに国民の反対運動にあって断念したようだ。このように歴史のある国ならば歴史と伝統を守ろうという保守思想があって当然なのですが、アメリカのようにたった230年の歴史しかない国では保守思想が成り立ち得ない。
アメリカ文化として我々が思い浮かべるものはジャズとかロックなどですが黒人のマイノリティーの文化であり、ヨーロッパ人が感心するようなWASPの文化はないようだ。あったとしても本場の人から見れば二流のものであり、アメリカ人はヨーロッパに対して知的文化に対しては頭が上がらない。アメリカを文化国家としてみているのは何も知らない日本人ぐらいだ。
アメリカという国は白人国家としてはヨーロッパの国に歴史と伝統でかなうわけも無く、本場のヨーロッパのまねをしているだけだ。日本人から見れば感心してしまうような事でも真似事なのだ。アメリカといえども白人社会のアウトサイダーであり、人種的にはアングロサクソンでも歴史も伝統もないという意味では隔たってしまっている。
だから自由と民主主義や人権や個人主義といった歴史的な思想的な背景をアメリカ人たちは知らない。だから共産主義といったまがい物の左翼思想にアメリカやロシアといった田舎国家の国民は飛びついてしまい、構造改革のような革命思想を実践してしまった。歴史や伝統がないが為の保守思想がなかったためだ。
そもそも「構造改革」という言葉自身が共産主義用語なのですが、小泉総理は選挙演説で「構造改革なくして景気回復なし」と演説しているのだから、まさに日本に共産主義革命でも起こそうとしているのではないかと日本の保守派は抗議すべきなのですが、日本の親米ポチ保守派は思想的な奇形児なのだ。
「株式日記」ではソ連とアメリカは兄弟国家であると早くから見抜いていた。ソ連が崩壊したという事は兄弟国家であるアメリカも崩壊する事は歴史的な必然だろう。ネオコンにしてもトロツキズムの流れをくむ思想であり、イラクを戦後日本のように民主主義国家として「構造改革」しようとすることはまさにトロツキズムなのだ。
だからネオコンをトロツキストだと株式日記では書いてきた。英語で言うところのストラクチャーとシステムの違いも分からずに「構造改革」を安倍総理も続けている。歴史と伝統を守れというと小泉総理などは「抵抗勢力」と名づけたが、まさにやり方は左翼的なやり方だ。制度改革と構造改革の意味の違いも分からずに制度と構造の意味をごちゃ混ぜにしている。
このような用語の使い方の乱れは自由主義なるものでもヨーロッパとアメリカでは意味が正反対であり、アメリカでは開放的な意味ですが、ヨーロッパで自由主義とはアウトロー(無法者)的な意味を持つ。だから竹中流の新自由主義経済はヨーロッパではアウトロー(無法者)経済なのだ。
コンサバティブという意味もアメリカでは個人主義的な意味ですが、ヨーロッパでは共同体の歴史と伝統をコンサーブするという意味であり、保守派でも中身が異なる。日本の政治思想の混乱はアメリカの政治思想の混乱が持ち込まれたものであり、アメリカは歴史がないからこのような意味の混乱が起きるのだ。
「株式日記」としては日本という共同体の歴史と伝統をコンサーブせよという意味での保守派である。いわゆる親米保守派というのはありえない思想概念であり本物ではない。岡崎久彦氏なども保守派とされているが単なるアメリカ主義者であり保守派とは何の関係もない。だから靖国神社の遊就館の歴史観を書き換えさせるのも保守派ならありえないことだ。
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