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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu134.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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クリント・イーストウッド監督 「硫黄島からの手紙」
アメリカ人監督によって描かれたこの映画は画期的だ。
2006年12月24日 日曜日
◆「硫黄島からの手紙」 12月9日 超映画批評
http://movie.maeda-y.com/movie/00842.htm
そんなイーストウッドの意識するところは、『父親たちの星条旗』とペアで見ることによって、はっきりと見えてくる。できればこの二本は、両方とも見てほしいというのが私の希望だ。
日米の視点を、日米双方の観客が見る。それは4つの視点を生み、それぞれ受ける感想が異なる。私たち日本人だけでも二つ、その"感想"の違いが何かを考えることが、この二部作を味わうために私がオススメするやり方だ。
なぜならばこの二部作は、ストーリーこそ違えどまったく同じ事を描き、同じ事を感じるように作られているから。それなのに、視点が違うと感じ方が異なるのはなぜでしょう、というわけだ。
それにしても、イーストウッド監督のこの冷静な視点、当事者の一方でありながら、余計な感傷に浸る事無くあの戦争を描ききった態度には恐れ入る。彼はここ数年の日本映画が(北東アジア三国に遠慮して)どうしても言えなかった"あの一言"さえも、いとも簡単に言わせてしまう。
見るものに主題について考えさせるタイプの、すこぶる出来のよい戦争映画として、私は強くこの映画をオススメしたい。なお、ここまでの文中触れる機会が無かったが、本作の語り部的存在である西郷役の二宮和也の演技は、みな絶賛のようだ。私としては、他の主要キャストの重厚な演技の中、唯一現代っ子が混じっているような印象を持ちはしたが、特に悪いという事でも無い。ハリウッド4作目にして主演の渡辺謙をはじめ、みな素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。
◆日本、如何にする 17 軍人と武将(侍)の違い 12月10日 公平と言うこと
http://blogs.yahoo.co.jp/kouheiron001/25098715.html?p=1&t=2
昨今、クリント イーストウッドの硫黄島を題材にした2部作が話題になっている。その中で、硫黄島守備隊の司令官 栗林中将を取り上げて彼が如何に日本を想い 家族を思っていたか、そしてその彼の思いが、徹底抗戦と言う選択を肯定的に描かれている。そして現在の日本人はその姿に本物の侍を映している様に思うのだが、現実には彼をして侍ではない。
第二次世界大戦の将軍達のなかで侍であった人物など殆ど存在していないと言う事実が、あれらの悲劇を演出したのだと言うのが真実である。
軍人と武将の違いは、如実にその行動を見れば明らかである。それでは何故、軍人と武士は根本的に違う のか? それは新渡戸による「武士道」を規範にした武士像を明治以降の軍人は模倣したからである。 「武士道」に描かれた侍の姿は、海外特に当時の列強国に対する、日本人紹介と言う目的で書かれたいわ ば広報的な文章である為に、英文にして理解しやすい、或いは西欧思想から理解できる程度にデフォルメ された武士像を新渡戸は描いている。このデフォルメされた武士の姿を、明治以降の軍人達は、模倣する 事で武士たらんとした結果が、栗林を代表に、帝国軍人の歩む道を誤らせたと言えるのである。
それでは「武士道」に描かれた侍と、現実に日本の歴史上千年に渡って権力機構に存在した侍と何処が違うのであろうか?
完結に述べるのであれば、民に対する思いが全く違っている。世界が大航海時代を迎えて以降、日本は徳川幕府により鎖国した。それ以前は、逆に航海術の未発達により極東の島国であった我が国は、海外からその領土を侵されると言う危機感を左程持つ必要が無かった為に、鎖国同然の状態であった。
この為に本来、大変に貧しい我が国に於いて、国家政策の失敗は地獄的な飢饉となって現れる。飢饉による民の減少は、そのままそこを領土とする武士にとって衰退を意味し、その結果自らの滅亡を覚悟する必用に迫られる事になる。海外からの援助や物資の輸送は到底望めないのが鎖国であるからだ。つまり全ての政は、須らく内政の一時に収斂する。
鎌倉期に作り上げられた武士像は、室町期に熟成され、戦国時代に完成される、江戸時代は、その武士を 思想として完成させた時期と言える。 忠義と言う意識もまた江戸時代に思想化された武士像の一部と言えるのだが、明治以降は、この朱子学か らなる、忠義(義)をデフォルメして武士=軍人そして民と言う序列が作られた。しかし現実には、江戸期までの武士は、この「義」より「仁」が中心的な思想であったと言う事が大きな違いとして明治以降間違った思想を国民に植え付けて行く事になる。
自分より上位にいる者に対する「義」より、現実には下の物に対する「仁」が開国前の我が国には必要不可欠であったのである。それは先に述べた様に、民の減少は自らの疲弊を生み結果として衰退を意味したからである。つまり国力が常に内側だけを見ざるを得なかった時代に於いて、その経済力や生産力は、常に一定であり、急激な増加は絶対に見込めないと言う現実に常に直面している。その為に「知足」をその信条に据えなければ、自らの滅亡を意味する事になるからである。
江戸時代までの武士が先の大戦に於いて、軍人であったら、あれほどの悲劇は生んでいないと考えられる。当時の軍人特にエリート達は、その欲望の先が常に外(海外)に向いていた為に、国内生産が不足すれば、その不足分を海外から埋めると言う方法論を常に模索し続けている。つまり我が国の必要量を調整するのではなく、必要量を想定したら不足分は、海外からの物資で補うと言う事を是とした。これが「富国強兵」政策の中心である。
更に、士農工商と言う身分制度の崩壊が、誰でも能力ある者は、権力を 得られると言う為に、エリート意識が高揚する時代でもあり、この事が物欲と同様に権力欲として、エリート達の意識を作り上げて行く事になる。エリートの保身、詭弁はこれが原因している。
しかし江戸期までの武士の場合、良きにつけ、悪しきにつけ、徹底した世襲であり、木村拓也主演の 「武士の一分」でも判る様に。「分」が重んじられた為に、俗に言う出世欲や権力欲は、殆どの侍には あり得ない意識であったと言える。時代劇に於ける出世欲の塊の様な、武家は殆ど現実にはあり得ないの である。例えば、老中職は将軍に代わって政を司る言わば権力の中心にある高位であるのだが、現実には老中に指名される事は、名誉と同時にその義務の拡大から辞退する者が多かったと言う事実を見ると必ずしも権力を得たいと言う欲望に駆られる武家の姿は、事実ではないと理解できるのである。
直参旗本にしろ無役より役職を得たいと言う意識はあったのだが、それは権力欲と言うより、戦国期とは違って所領(収入)が増える事の無い時代に於いて、最低限の収入確保の手段としての役職であるからだ。
それでは、もし江戸期までの武士が先の大戦を戦ったとしたら、具体的にどうなったかを想像してみようと思う。「たら れば」で歴史を語る事はナンセンスだが、この比較によって、如何に戦前の軍人が侍ではなかったかと言う事を簡単に理解できると考えるのでお許しいただきたい。
ミッドウェイから比較してみる。元々、戦艦屋として航空部隊の指揮をした事が舞い南雲にその機動部隊を与えた事が、最大の敗因と言えるが、それでも、もし彼が本物の侍であったら、第一波の敵航空部隊からの攻撃で、二隻の空母を失った。この時点で一端「撤退」を考えねばならないのが本来武将としての彼の役割であるのだが、彼は、先制を喫されているにも拘らず、戦う事に拘泥して、そのままその場に居座ってしまう。これは彼の意識の中に、自らの「保身」がそうさせたと言える。
引き際の潔さが侍の本質で あるのだが、彼は、逆に汚名を挽回する事を選んでしまう。もし彼が武士であったら、まず上空哨戒を徹 底して、敵哨戒機を排除する事を専念して、すぐさまその海域からの離脱を図る事を一義としたはずであ る。当時の空母の速力は25ノット程度(時速37キロ)これで三時間離脱すれば、概ね百キロ以上、そ の海域から離脱可能である。
当時の艦上機は、五百キロ程度の航続距離であるから、百キロ離れると攻撃が難しくなる。この為に敵航空部隊は、空母引き連れて、追いかける必用が出てくる為に、追撃に無理が生じる。つまり撤退を恥とする思想に南雲は拘泥した事が悲劇を生んでいると言える。
この時空母「蒼龍」の山口多門提督が武士として南雲と比較されて英雄化しているが、これも優秀な軍人であるかも知れないが、武士ではない。 「赤城」「加賀」と言う主力空母が撃沈されている状況で、戦うを選択した時点で、やはり「徹底抗戦」と言う思想から抜け出せていないからである。負けるを前提に戦うを否定する事が、武士としてのモラルであるからだ。
また絶対国防圏と言う意味なき設定は、負ける度に縮小され、如何にいい加減な根拠で設定されたかが判ろうと言うものである。 この絶対国防圏により、アッツ島、サイパンの玉砕が始まる事になる。参謀本部が立案した、この「絶対国防圏」は、それが破られた時、国土の破滅を意味するのであるから、その時点で参謀本部として終戦を模索する必要があるのだが、彼らはそうせず、その縮小を延々と続けるのである。
5日で占領できるはずであった硫黄島が30日以上抵抗して玉砕、一万人以上の日本兵が死んでいった。 もし徹底抗戦せず、白旗を揚げていたらどうなったであろうか、硫黄島に作られた米軍の航空基地により 日本は、その爆撃の射程に入り、日々の空爆でその敗戦は、早くなったとでも言うのか。現実には、サイ パンが玉砕したと同時に、ほぼ日本の全域は、その射程に入っており、連日の空爆は続いていたのである 。
つまり現実には、彼らが意図した絶対国防圏は、既に意味が無くなっていたのだが、参謀本部の根拠なき命令を忠実に果たして行く。 それでは、徹底せずに降参していたら、どうなったか、一万人以上の日本軍兵士を捕虜とする米軍は、その人員を艦艇で後方に送致するか、或いは硫黄島に施設を作る必要が出てくる。これに伴う作業は、膨大な枷となって米軍の前進を遅らせる可能性があった。本来、玉砕の方が米軍の進行を助ける結果となっているのだ。
負けるを嫌い、その為に全滅を選ぶ、残されたのは累々たる死体の山であり、その始末だけを考えれば済む為に、米軍には、さした負担とならない。サイパンに於いても、南方戦線でも同様で、もし勝てないと作戦上判った時点で、撤退できないのであれば、降伏を考えて交渉すれば、米国軍は、その捕虜政策に膨大なエネルギーを費やさねばならず。その為に逆に戦争を終結するを先に考えざるを得ない結果であったかも知れないのだ。
「正義の戦い」として太平洋を攻めあがって来る米軍は、捕虜虐待や虐殺を実行できない、軍人エリート達は、国民を啓蒙した「鬼畜米英」ではなく、現実の米国人を留学などで知っていたはずであり、そうすれば、玉砕より降伏の方が遥かに米国に対して膨大なエネルギーの消費を促すという事実を理解できたはずである。つまり玉砕と言うのは利敵行為に他ならない。
作戦立案に天才的と言われた、石原莞爾は戦後、殆ど戦争の事は語らなかったが、サイパン島玉砕にあたり、近くにいた者にこう語っている。
「私が、南雲であるなら、敵が上陸する前に、部隊を二つに分ける、一つはその人員の9割からなる降伏 する部隊ともう一つは、降伏せずに徹底抗戦する一割の精鋭部隊である。敵が島を囲んだ時つまり撤退で きなくなった時点で、司令官として敵に対して降伏を申し出る。武装解除して粛々と敵上陸を待つ、敵は 、その捕虜を収容する必要とそれに伴う物資の調達が必要になり、かなりの物資を吐き出さざるを得ない 。この上陸の前に、自分達の基地や物資は廃棄、破壊しておくからだ。
上陸して彼らは、当然、滑走路や 基地を設置する事になるが、その一部は捕虜である日本兵が請け負う事になる。ここで隠れていた精鋭部隊が、米軍を攻撃するのではなく、捕虜になった日本兵を攻撃する。こうなると米兵が日本兵を守る必用があり、その建設は遅々として進まない。地下に潜った精鋭部隊は、十名くらいの小隊ごとに分かれてその攻撃を執拗に続ける。これで米国は、中々、作戦を実行に移せない。」 つまり玉砕は、利敵行為であると断じている。
武将は、戦の勝敗が決した時点で、自らの配下を生き残らせる事を考えて、命を敵に差し出すのである。それを帝國陸海軍は全く逆を行っている。まず兵を全滅させて、その負け戦の責任を取るために腹を切るのでは意味が無いのである。 彼らがもし武将であるなら、負け戦が理解できた時、直ぐに敵に和を請い、自らの命を差し出す事で兵、民を助けたはずである。
この様に、武士と軍人は全く違う存在であり、その為に明治以降の武士像は歪に変形されたものであったと言えるのである。
最後の陸軍大臣である阿南が「一死を以って大罪を謝す」と言ったのは、国民に対して謝すと述べたのではなく、天皇に対してである。この事実をもっても如何に当時の軍人達が国民の方を見ていなかったが理解できよう。
(私のコメント)
先日はクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を見てきましたが、平日にもかかわらず満員の観客でした。ハリウッドの戦争映画と言うとどうしてもアメリカのプロパガンダが多少なりとも含まれてしまうのですが、虫けらのように扱われてきた日本兵を人間として描いている事は画期的だ。
すでに戦争が終わって60年以上も経つのだから、大東亜戦争を歴史的観点から見られるようになってきたのでしょうか。映画界でも歴史的事件や戦争も時代によって見方が違ってきますが、戦争当事者の見方と後世の人が見る見方とでは当然解釈が違ってきます。
この映画でもアメリカ兵が日本人捕虜を殺すシーンが出てきますが、以前のアメリカ映画では考えられなかった事だ。リンドバーク日記でも日本人捕虜の殺害の事がかかれています。
◆米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/beigunzangyaku.htm
*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
(私のコメント)
東京裁判では日本軍だけが一方的に裁かれましたが、アメリカ軍は捕虜をとりたがらないから降伏しても殺される事が多かったのだろう。歴史的に見れば日本とアメリカとでどちらが悪かったのかは意見が分かれるのは当然ですが、最近では靖国史観も見直されるようになってきたことは時代が変わってきたことを物語っている。
先日は百人斬り裁判の判決がありましたが、日本軍が中国人捕虜を殺害した事も事実でしょうが、現在のイラク戦争でもアメリカ軍はイラク人をテロリストとして住民を殺害しているようだ。去年四月のファルージャの戦闘でもアメリカ軍狙撃兵が住民を無差別に殺している。このように捕虜殺害はどの戦争でもあるのであり、人道的な軍隊などありはしないのだ。
大東亜戦争は60年前に終わりましたが、歴史的評価をめぐる言論戦では負けるわけには行かないから、株式日記では大東亜戦争はアジアの開放と人種差別の撤廃の戦争であったと主張している。もちろんアメリカ側から見ればこのような見方は否定されるだろう。このような論争は歴史学会でも日米で行なわれるべきなのでしょうが、政治的に論争を避けている。
一般大衆的には映画を見れば大東亜戦争の受けとめ方も時代を反映しているといえるのですが、アメリカ人監督によって描かれた「硫黄島からの手紙」は時代を反映しているといえるのだろう。中国では南京大虐殺の映画が作られるようですがどのように評価されるだろうか? ネットが普及した情報化社会で時代考証がデタラメなプロパガンダ映画を作っても世界に恥を晒すだけだ。
「公平と言うこと」のブログでは軍人と侍の違いについて論じていますが、株式日記では武士道については葉隠れ武士道と徳川武士道があることを書いた。おそらく昭和の軍人達は徳川武士道を引き継いだのだろう。
◆葉隠武士道と徳川武士道は仏教と儒教の哲学の違い 2003年12月12日 株式日記
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/729.html
戦国のサムライは主君を何人も代わる事が当たり前だった。戦に負けるたびに主君に詫びて許しを請う。負けた主君は敵に捉えられ首を打たれるわけですが、戦国のサムライは許してくれた主君の「情」に対して「追い腹」するわけです。だから徳川時代の忠臣蔵に見られるような刑罰といしての「切腹」とは意味合いが異なります。
(私のコメント)
葉隠れ武士道から言えば戦に負ければ主君の首を差し出すことで配下の者たちを救ったのですが、昭和の軍人達は多くの兵士を死なせて無駄死にさせてしまった。戦国の武士道が生きていれば戦況が不利となれば躊躇うことなく撤退するのが武士道なのですが、昭和の軍人達は戦略的な撤退を知らなかった。
最近でも自衛隊が「イラク撤退」と言う言葉を嫌って「イラク撤収」と言い換えましたが、意味が同じであるにもかかわらず「撤退」と言う言葉を嫌う。「ガダルカナル撤退」のトラウマがあるからですが、補給が出来なければ戦には負けるわけだから撤退するのは当然なのですが、昭和の軍人は侍ではなく官僚だったのだ。
昭和の軍人が官僚ならば、部下をいくら死なせても責任は取らずに平気だし、出世欲が強くて中国にも戦線を広げてしまった。大東亜戦争はいわば負ける事を前提とした戦争であり、侍ならば負ける事を前提とした戦いはしない。昭和の時代はすでに武士道は廃れてしまっていたから大東亜戦争が起きたのだろう。
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