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(回答先: 戦争反対と叫びながら「闘争を叫ぶ」のは偽善かもしれませんね。 投稿者 考察者K 日時 2006 年 12 月 28 日 07:02:45)
>戦争反対と叫びながら「闘争を叫ぶ」のは偽善かもしれませんね。
戦争と闘争は別物ですよ。
戦争は国家主導の大量殺人。
闘争は、市民の国家に対するものであり、しかも、殺人をやろうというものではありません。悪政を倒そうというものでしょう。
それによって貴方が「生存権」の尊重を主張するブルジョアとか安倍とか小泉が潰れようとも、何も彼らを殺そうってわけじゃないですよ。まあ殺したいほど憎いという感情はあると思いますが。マスコミにしても、マス「ゴミ」でなくなってちゃんとしたマスコミになってくれればよいではないですか。マス「ゴミ」を倒すことと、マスコミを倒すことは全くの別問題ですよ。
>ある集団において「価値感の違いによって他人への弾圧、イジメ、排除行為を容認する者」は、より巨大な集団社会の中で「価値感の違いによって、様々な人権侵害を受ける事を容認している」のと同じなのだろう。
ご自分への批判を、弾圧、イジメ、排除行為と勘違いしておられますね。
誰がいつKさんに阿修羅から去れと言いましたか?
いつ、貴方の投稿が抹殺されようとしましたか?
「価値観の違いによって他人への弾圧、イジメ、排除行為を容認する者」
それはまさしく、Kさん、貴方ですね。
日の丸・君が代の強制を容認するという価値観を持つ貴方は、
強制という人権侵害を受けている人たちへの弾圧、イジメ、排除行為を容認しているのです。
抵抗しても無駄、強制には黙って従うべきという「憑き物」的イデオロギーをお持ちの貴方は、強制に従いたくないと思っている人の価値観を認めていないのですよ。
また、
>つい最近の阿修羅でも「マスゴミ」とか「媚び泉」とか「安部壷」とかの「敵であれば、人権などは考えなくても良い」というような書き込みもあるようですが、これの行き着く先は「敵の存在の抹殺(生存権の否定)」だろうと思います。
(http://www.asyura2.com/0610/idletalk21/msg/197.html投稿者 考察者K 日時 2006 年 11 月 28 日 21:22:40: JjkI8nWTpj0po)
などと言って、マスコミや、政治家としての小泉、安倍への批判を、人権侵害だとか、生存権の否定だなどと言う。
小泉や安倍は国民の生存権を否定するような政治をやり、マスゴミはそれを支えてきている。そいつらを批判するのを、人権侵害などと揶揄するのは、それ自体、彼らの国民に対する弾圧、イジメ、排除行為を容認する行為ではありませんか?
それを批判されて、自分は「弾圧、イジメ、排除行為」を受けた
などという被害者感情を持つ。
強制にも黙って従え!などと言われたら日の丸・君が代処分者らがどう思うか、貴方には想像力というものがないのか。
小泉や安倍の悪政そしてそれを支えたマスゴミのせいで苦しんでいる人たちに対してでも貴方は、「媚び泉」とか「安部壷」とかマスゴミなどと呼んで揶揄するな、「人権侵害」だ、「生存権否定」だ!
などと言えるのか。
私が貴方のことを「弱者、抵抗者の視点を持っていない」(http://www.asyura2.com/0610/idletalk21/msg/566.html)と評したのはそういうことなんですよ。
わかりました?
>精神論ではなく理論、主観ではなく客観性、数の暴力ではなく理知的な対話という方向で考察できる人を増やすと云うことでしか、本当の意味で「住みやすい社会は作れない」のだろうと思う。
新古典派経済学という、市場にまかせさえすればすべてはうまくいくという「理論」を信奉しているのが今の新自由主義者らであり、それによって世界中で格差拡大・弱者切り捨て、富裕層はさらに儲かる、というような事態になっているのですよ。
主観でなく客観って、人に対する思いやりという主観を持ち込むことなく政治が行われているから国民は疲弊しているのではないですか?
貴方のおっしゃるようなやり方では本当の意味で住みやすい社会など、作れませんよ。
少なくとも、もし貴方がご自身のことを「精神論ではなく理論、主観ではなく客観性、数の暴力ではなく理知的な対話という方向で考察できる人」と思っておられるのならば、
貴方のご考察によって日の丸・君が代強制という精神的苦痛(人によっては病気になるなど肉体的苦痛も)への抵抗という手段を奪われる人たちにとっては、この社会は「住みやすい」などとは到底言えませんね。
≪是非ご参照を≫
●http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/hirakata-matuda.htmより一部抜粋・転載。
【 「音楽は理屈ではないんですね。だから音楽なんです」何がおっしゃりたいのかよくわかりました。だから、かつてとても荒れた学校に赴任して、音楽の時間に一生懸命ピアノを弾いても子どもたちが誰も歌ってくれなかったときに、もう辞めようかと思ったそうです。でも、あるとき、廊下でひとりの生徒とすれ違ったときに、その生徒が授業で教えた歌を鼻歌のように歌っていたそうです。それを聞いたときにその先生は「まだやれる」と思ったそうです。楽しさや喜びやときには悲しみも、そういった人間らしい感性の表現や発現としての音楽でしょうから、やっぱりみんなが一生懸命に歌ったり、自然に歌を口ずさんでくれたらうれしいですよね。音楽が好きで、音楽の先生であることに喜びと幸せを感じておられるのだと感じました。
「国歌斉唱の1分間、ほんの1分間がまんすればいいことだから」ピアノ伴奏を強要されていることに対して、職場の同僚は決して悪意はなく、心から心配してそういってくれたそうです。でも・・・・「その1分間は私は音楽の教師ではない」
講演をされた野田正彰さんは、それについてこのように言われました。「その理屈は、ある女性(少女でしたか)が売春をするときに『ほんの30分がまんすれはいいのだから』そういって合理化するその論理と同じなのです」と。
一度しかない人生です。誰だって、たとえ1分だろうと30分だろうと、自分に正直に生きる権利があるはずです。納得のできないことのために魂を売らなければならない義務などあるでしょうか。それを良心というのではないかと私は思います。】
●「市民的不服従をどう処遇するかは、その社会の寛容さを測るものさし」(植松健一氏)
http://www.asyura2.com/0610/idletalk21/msg/755.html
投稿者 heart 日時 2006 年 12 月 24 日 20:58:38: QS3iy8SiOaheU