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(回答先: 法則の誤りについて(考察者Kさんへ) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2006 年 12 月 02 日 03:55:52)
>竹中半兵衛さん どうもです。
ただ、今回の前半部はいただけません。
なぜ、そうなるのだ?と理解できません。
>【「どのような体制でも「食料とエネルギーの自給自足の条件を満たした上でなければ崩壊する」しかないだろう」というならば、アメリカの「自由主義」(体制?実態は資本主義経済体制)も「食料とエネルギーの自給自足の条件を満たして」いないのだから崩壊するこつなんべさ。現代のどの世界にも「自給自足の条件を満たした」国家はないのだから。】
Kの書き方が悪いのでしょうが、これって、揚げ足取り的な意見ですよ。
しかし、Kの書き方にも問題はあるでしょうから、少し、解説しましょう。
竹中半兵衛さんは
『善良で献身的な政治家がTOPだが、国力のために国民に十分な食料とエネルギーを供給できない国』と『国のトップはクズの集まりだが、国民の色々な要求に対しては必要十分といえるレベルで供給ができている国」のどちらか国として長持ちすると思うでしょうか?
多分ですが、長持ちするのは後者だろうと思います。
Kは「食料・エネルギーの自給自足」が条件とは書きましたが、絶対条件と書いたわけではありません。国民の要求レベルを100%自国で賄えるのが理想ではありますが、調達できて『供給』できればOKですし、少々ならば「供給レベルをクリアできなくとも、大丈夫でしょう。」
しかし「国の政策において、どのように工夫しても『国民の我慢の限界最低レベルの供給をクリアできない』ならば、その国の体制は社会体制だろうが、自由体制であろうがもたない」でしょう。
一方、国内において生産できない国でも「貿易等の中で、国民の要求レベルを一定限度内で満たしていれば、多少、支配派層が腐敗していても、国家の制度は存続する」でしょう。
わざわざ、解説が必要な事とは思えませんが、竹中半兵衛さんが「今回のように理解されたメカニズム(Kへの偏見か?)」は、問題なのだろうと思っています。
>【余計なことかも知れねすが、なすてこのようなKさんの論理的矛盾が生じんだべかっつ考えてみますた。「社会主義がアメリカの自由主義に負けた」という表現については、厳密に言うならば、社会主義というイデオロギーがアメリカ自由主義(具体的には「資本主義」)というイデオロギーに負けた、ということだが】
ここに至っては、既に「対話になっていませんよね」
Kの文章に自己矛盾がないとは言い切れませんが、竹中半兵衛さんの論証された範囲の中には「Kの意見の自己矛盾」が論証されているとは思えませんし、Kは「イデオロギー対決として社会主義というイデオロギーが負けたのではなく、ソビエト連邦という国家の崩壊には「イデオロギーの優越よりも国家の立地条件という問題の方が大きな影響があると思う」のですから、180度、逆でしょう。
>【現実の人間社会における関係がイデオロギー関係で述べられることになり、論じるべき課題がイデオロギーを語ることによってイデオロギーの担い手である人間については語られないことになります。】
Kはイデオロギーの担い手と云う意味については、既に「宗教的な狂信者と同じ」と否定的な意見を書いています。
繰り返しますが「イデオロギー=思想」の盲信者なったら、為政者の資格はありませんし、更に言えば「選挙権すらも行使する資格もない」と思っています。
重要なのは「過去のイデオロギーを参考にしながらも、その中から良い点と悪い点を区別し峻別し、未来に活かす方向での創造力」であり、Kは「人間」について語っていると自分では思っています。
例えば今回、アメリカの中間選挙結果は既存の路線へのNO!という回答がでました。今後は流動的であっても、路線の変更はある程度はされるでしょう。
日本においても、来年の参議院選挙結果によっては「小泉氏の引いた路線の見直しをしなければ政権がもたない」と云うことになるでしょう(衆議院は改選されませんから、政権与党が変わると云うことはありません)。
これは、既存の社会主義国においては「あり得ない、国民サイドからの良い点」でしょう。既存の社会主義国では「国民が暴動でも起こさない限り、国民の声が反映され難い」という欠点もありました。
イデオロギー国家では、イデオロギーが憲法という意味を持ってしまいますから、それに異議を唱えただけで「反政府主義者として危険分子の烙印を押される」という性質になり易いという面があります。
宗教国では「教祖は神」ですから、異議を唱えただけで「反逆者(=排除すべき存在)」となるでしょう。
現実の社会においては「人は食わなければ生きていけません」ので、理想通りにはいかない場合も多々あるでしょう。「絶対の法規」という部分を作ってしまう事が危険という部分もあるでしょう。
行政を行うのも「生身のミスを犯す人間」ですし「その国で暮らしているのも、生身の不完全な人間」なのです。
ただし、確信犯的な「悪意」と云うのは減らしていく必要もあります。確信犯的な「悪意」とは「他人の人権を不当に扱う」という視点です。
マージャンと云うゲームがあります。そのゲームでは「参加者の総意において、勝者と敗者が生まれるという了承が行われた」という前提でゲームが開始されます。
結果として、誰かが裕福になりますが、ゲーム終了後に「勝者を憎み、勝者を不当な裕福者として断罪し、勝者の人権を不当に扱った」としたら、これは、正しい行為ではないでしょう。
現実の社会でもブルジョアジーである事を理由にして「人権を無視」するのなら、それは間違いだろうと考えています。階級を見るのではなく「人物を見る」という視点も必要ですし、生まれながらの「親の階級とか、相続財産」という部分も考える必要があるでしょう。
「金持ちの家に生まれたのは、生まれた子供の責任」ではありません。(ちなみにKは貧乏人の子供で、親は共働き、本人は未だに貧乏で軽自動車を愛用車として使用していますが、そろそろ、普通車にしたいと思っていて、その為の資金繰りに苦慮しています。)
「嫉妬からの憎しみ」は間違っているでしょうが、そうではないにしても「相手を憎しみ、足を引っ張ろうという考え方を出発点にしてはいけない」のだろうと思います。
「相手を理解し、相手の意見も一度は肯定的に受け止めながらも、妄信はせず、その中で問題点の本質を見極め、改善できるものは改善していく」という『自分で判断する』という視点こそが「日本国民全体に求められている」とKは考えています。