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(回答先: 全ての行動は「論理性・合理性を有していなければいけない」と思っています。 投稿者 考察者K 日時 2007 年 1 月 22 日 07:12:29)
考察者Kさん、お返事ありがとうございます。
今でも反対です。学生時代から、左派の理論はまわりにたくさんあり、今では、これはどうかな、と思うものもありますが、君が代強制問題については、気持ちは変わっていません。
教師の頃は、校長から、職務命令にするぞ、という一歩手前でしたね。
やはり、Kさんの君が代強制への立場というか、気持ちがわかりません。
式典だから、職務だからやれ、というのは、おかしいですね。だって、やれといっている事自体が、憲法違反の可能性があるからです。
Kさん自身、積極的に君が世は式典で絶対歌えという立場でもなければ、戦前天皇制復活の立場でもないようです。
そして、強制には、反対ですよね。
君が代を単なる歌のこと、と捉えていたらいけないのではないでしょうか。
天皇が国の代表者(こういう言い方はいいのかな)となったいきさつを見ながら、維新後の天皇の歴史、どのように人々の心の中に浸透していったかなどをよくみないといけないと思います。
世界の中の一つの国としての自覚はなかった明治維新以前、国としてのまとまりを天皇に求めたということがひとつとすると、天皇制 = ファシズムではないと思うし、天皇制が戦争を直接結びつこともないでしょう。しかし、戦争を遂行しようと為政者が考えた時、国民の気持ちをまとめるために、天皇を利用したと考えられるとすると、その天皇制のひとつの賛美として、君が代があり、それの国歌化があると考えられて、されに強制が考えられますよね。
すると、なぜ式典が混乱するかもしれないし、憲法違反かもしれない君が代賛美をさせたいか、ということをよく考えなければならないのではないでしょうか。
単なる歌なら、ここまで問題になることはないでしょう。
私は、kさんの方法論は次の意味で説得力に欠けると思います。
それは、Kさん自身 君が代強制斉唱に強い危機感を覚えていないからです。
すると、危機感を感じている人と同じ土俵で、方法論を論じられないからです。
だから、目的を明確にし、とか 必要最低限の犠牲とか 述べられても、あなた自身にこの問題をなんとかしなければたいへんだという意識がないのですから、そんなに真剣に考えたこととも思えないのです。第一、犠牲といっても、Kさんは教師のやったことは 職務違反なのでしょ。
行き過ぎた国粋主義を生んだ(といわれる)戦前の天皇制に一歩でも前進させないように、危機感をもった人々の抵抗運動とは捉えていないわけだから。
誤解のないように言えば、私は、君が代を強制して何が悪い、という意見も聞きたいと思います。天皇制は素晴らしいとかね。天皇は昔から存在していたわけだし、神道も昔からあったわけで、もっと深い考察をききたいです。
日本が天皇を中心にまとめようと考えた為政者が、アジア人を打ち殺して、日本だけいい思いをしようではないか、と考えていたかどうかも不明です。
国としてまとまらないと、西洋諸国の植民地になってしまう、という危機感があって当然でしょう。外の世界のことをわかってない庶民には、とにかくいうことを聞いてもらおう、と。
そういう考察から、教師の平和運動は、こういう意味でまったくのまとはずれ、という意見もあるだろうと思います。
私個人だって、侵略戦争の主な原因は、宗教そのものではなく、お金、(ゴールドなども含め)つまり、土地や資源など )だと思いますから。
そんなことは、テメエで考察しろ、
はい、そのとおりです。だた、君が代への不起立に対し、反発する立場のKさんなら、そういうことも理由にあるのかな、と思っただけです。
Kさん、曰く、
教師のしたことは、職務違反です。
式典はみなで協力して きちんとやりましょう。
闘争なら、もっと目的をしっかり見て、効果など達成度もきちんと考えてやりましょう。
歌いたくない理由を4つに分けます。(だから何でしょうか。Kさんの立場は??)
強制がいやだったら、石原を変えましょう。
といっているわけですが、これでは いやみではなく、だから、何??
と言ってしまうのです。
あなたは、何をどうしたいの?? と。
それから、まわりにあわせる、ということですが、
私はもちろんそういうことに賛成です。
個人の信条とか、思想とかより、多くの場合、そちらの方が大切だと考えます。
それが日本文化だと思うからです。
和を尊ぶのが、日本人でしょう。
しかし、そういう日本人の心を利用して、天皇制を作っていき、大切な人命を落とさせたのは為政者ではないでしょうか。
私は、「和」は、その社会の構成員全員のためにあると考えます。
決して、その外にいる、ある特定に人や、団体のためにあるのではないはずです。
だから、個人より社会が大切と考えるのです、というより、社会と個人の生存は同じと思います。
君が代強制は、歴史を見る限り、その和の心から逸脱、又は、利用し、ある一定の人々、例えば、資本家などのために使われたと考えられます。(反論を待っています)
Kさんの価値をおく「和」の心と、君が代強制は、思想的に一致するのでしょうか。
現実問題、そこには、日本国を守りたい、戦争に勝つには資源が欲しい、資源を得るためには戦争に勝たなければならない、資本主義を発展させなれればならない、和の心はくずれる というジレンマが出てきますよね。
そういう中での、天皇制などを考えていかなくては、深い考察はできないだろう、と考えます。
最後にタイトルですが、私はそうは思いません。論理性、合理性??
和の心、を説明する時、合理的に説明できますか。
足でものをけらない、引出しをしめない、などの美しい(日本人から見て)姿は説明できません。机やたんすの一番下の引き出しは、足で閉めたほうが合理的です。
給食の時間、ひとりでも席につかなければ、全員食べられないよ。というきまり、合理的に説明できません。日本人のみにわかる合理性ってことかな。
西洋では、植民地支配は、虐殺などを除き、合理的に説明され、今でもよいことになっています。どう思われますか。