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(回答先: 個人優先は無理だろうと思います。 投稿者 考察者K 日時 2007 年 1 月 15 日 22:25:47)
>集団と言うものに参加した時点で、個人の自由意志は一定の規制を受けるしかないのです。
>「ある特定の個人の尊重」は「別の個人の尊重の妨げ」になる可能性が高いのです。
>ですから、個人の尊重を欲するのなら集団から離脱するか、もしくは、集団のトップに立つのどちらかしかないと云う事になります。
集団でどう行動するかを決める場合、個人の尊重というのは、互いの意見をよく聞き、話し合い、対話によって物事を決めていく、というそのプロセスに表れると思います。
決して、集団から出なければ個人は尊重されないというものではないでしょう。
もしそうなら、集団の中では個人は尊重されないということになり、それはすなわち社会という集団の中でも個人は尊重されないということをも意味します。
そして、個人の尊重というのは、そもそも、他者を必要とする概念です。
他者がいなければ尊重してくれる人もいないということになりますからね。
一人でいるときにしか達成されない個人の尊重なんてものは存在しないのです。
集団から離脱したところで、得られるのはプライバシーであって個人の尊重ではありません。
集団のトップに立った人は「個人の尊重」を得られるか?
言い方を変えると、集団のトップに立った人は、「個人として尊重」されるか?
されません。
個人として尊重されるのではなく、ボスとして「尊重」されるだけです。それも、カギカッコ付きの尊重です。
っていうか、Kさん、個人の自由意志が通るということと、個人が尊重されることとは必ずしも一緒じゃないと思いますよ。
自由意志を通させてくれる人がその人を個人として尊重しているといは必ずしもいえませんから。
こうしたい!ていう願望が通ることがその人にとってよいこととは限らないわけですから、そうじゃなくこうした方がいいよ、とアドバイスしてくれた人の方が、好きにしなさい、って言う人よりもその人を尊重している可能性があります。
以下、メモです。今度こそもう寝ます。おやすみなさい。
●個人を尊重するとはどういうことか(具体的にどうすることが求められているのか;価値観の違う人との付き合い方)
両極端のイデオロギーを個人が受け入れなくてはならないというわけではなく、社会が受け入れなくてはならない。社会が全体として、いろんなイデオロギー、価値観の存在、表明を認めることが必要だ。
(自分にされて嫌な事を、相手にしてはいけないというのが、当然の前提。)
自分さえよければ、という考え方ではダメである。良心を侵害されて傷ついている人を見ても、自分が傷つくわけではないからと見て見ぬ振りをするようでは、良心の自由を保障する社会風土は作れない。他者について想像力を持つことが必要だ。例えば、イジメにしても何にしても、された側がどういう思いをするかについて想像できないから起こるのだと思う。イジメは個人の尊厳に対する最大の侵害行為である。他者について想像し、共感する、この力を多くの人が持てば、世界は変わると思う。