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(回答先: 憲法改正の策動は学校でも行なわれているとして「君が代不起立」しかないのか? 投稿者 考察者K 日時 2007 年 1 月 12 日 07:02:44)
Kさん どうもです。
>問題は「憲法改正によって、戦争のできる国に変わりたい」という考え方があり。
>その中で「様々な策動が行われている」と言う事を「国民に納得させる」事であり
>多数化形成によってシステムを崩す事なのです。
>仮に多数派形成が成功したならば、石原都知事が都知事の職にいる事はないでしょう。
>「都の条例」そのものが、消滅するでしょう。
>個々の中間管理者とか教育委員会に闘争を行う事に「目的達成の利点」があるのか?
>彼らだって、生活がありますから、今の生活を捨てて協力する人は極少数でしょう。
>残りの大半は「生活を守るために敵に回ってしまいます。」
>彼らの職務の中心には「規律秩序の維持」があるのです。
>更に君が代不起立は「闘争を疑問視する人」を増殖させるだろうと思います。
>問題は「歌詞」です。ひのきみ運動が「日の君(=天皇)」に通ずる様に「これは日本の天皇を否定し、共産国にするための運動だ」と思う人は多いだろうと思います。
逆に反対する人は、その歌詞故に「強制は日本の民主主義を否定し、軍国国にするための運動だ」と思う人が多い。ふむ。
>また「勤務時間内の式典妨害」という物は「今の日本の価値感の中では反発を招くだろう」と思います。
式典で起立・斉唱した教師は賛成派にならないと、子供に「裏表のない人間になれ」とは言えないという問題がある。
>国の強制に反対する反戦運動という事ならば「別の手法」はないのか?という視点が抜け落ちていませんか?とKは問うています。
>目的の障害となる視点から目を逸らすのではなく、そのような視点を分析した上で「多数派形成をする手法を考えるべきだ」と主張しています。
確かに教育基本法改正・ひのきみ強制反対の趣旨が都民によく理解されず、「改正や強制はいいんじゃないか」と考える都民は多い。
>「君が代不起立の実行者」は「運動の犠牲者」となる確率が増えています。
>このような事は「運動者に犠牲を強いる運動」であり「背中を押す人は、背中を押す責任と言うものを考えていますか?」と問うています。
>背中を押すからには「一蓮托生で、発生した犠牲をも共有する覚悟がある」というのならば、それはそれで立派でしょうが、同情からの共感で一緒に闘争したような満足感を得ているだけならば、それは無責任であり、錯覚でしょう。
現在、都民の多くが右派の論理を支持している以上、これをひっくり返す左派の論理を都民によく理解してもらわないとheartさんが紹介したノルウェーのような抵抗は出来ないし、戦中の日本のようにまた失敗してしまう。都民に反対する意味を理解してもらわないと運動をする意味がないのは確かです。決して少数だけで分かり合いたいたくて運動している人は少ないでしょう。何事も運動の広がりが足りない結果が起こるのは論理理解の広がりが足りないからですね。