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(回答先: 価値観の分類 投稿者 haru 日時 2007 年 1 月 11 日 20:47:23)
haruさん、こんにちは。
>多様化とされる価値観にそれ程の重大性を見いだせません。
私は多様な価値観を認めることの重要性を最近主張したりしていますが、
こんなことは個人を尊重する価値観の下では当たり前であるべきことだと思っています。
人にはいろいろな価値観があり、価値観こそがその人の個性を現すもの。
であれば、人を尊重するのならばその価値観も尊重しなければならない。
そして、価値観というのは十人十色である。
ならば、人を尊重するためには多様な価値観を認める必要がある。
こういう認識です。
で、この本来強調するまでもないはずの多様な価値観ということをあえて強調しているのは、権力が価値観の違いをもって国民を弾圧する様相が強まってきているように思うからです。
また、国民が右とか左とかいうイデオロギーの違いにより対立・分断されていることによって、権力に対し連帯して向き合っていくことが阻まれており、それが権力者を利することになっているのではないかという問題意識からでもあります。
haruさんは
>破壊、滅亡を基にした価値観が、世に満ちている
という懸念を表明されていますが、確かにまあそうかもしれないと思います。
で、多様な価値観を認めるからといってそういう価値観をも認めるのかどうかという問題ですが、「破壊、滅亡を基にした価値観」を持つ人が、その価値観を持たない者の人権を侵してくるようであれば、それは許されないことです。
その行為自体は、排除しなければなりません。
しかし、「破壊、滅亡を基にした価値観」をもった人がその価値観をその人自身に関わることに限って表現するのであれば、説得を試みることはあっても、基本的にはその価値観自体を排除することは許されないのではないかと思います。
もう少し具体的な例を考えると、例えば新自由主義という価値観に基づく政治が世界各国で行われていますが、そういう価値観に基づいて社会・経済のシステムを作ったことによって、様々なところで貧困に苦しむ人たち、環境破壊によって苦しむ人、植物、動物を生み出しています。コミュニティの破壊もしています。
こういう価値観は、恐らくは打倒されなければならない価値観だと思います。
一人では実現し得ない価値観であり、他者に悪影響を与える価値観である以上、制約を受けざるを得ないと思います。
価値観は、
@他者に対してもある行動を要求する、あるいは他者の生活に何らかの影響を及ぼすことによってしか実現されないものと、
Aその価値観を持つ者だけでも完結し得る価値観
、この二つに分けられると思います。
@は、他者に直接影響を及ぼさざるを得ない価値観である以上、制限を受けざるを得ません。
しかしAは、他者に悪影響を及ぼさない限り、制限を受けない。
これを例えば日の君強制問題に当てはめれば、
「教師、生徒は起立・斉唱すべきである」というのは@の価値観であり、制限を受けざるを得ない。
一方、思想、良心に基づき起立・斉唱したくないという価値観は、他者に対しどうこうするよう強要するのでなく、本人が起立しない、斉唱しないということによって完結するのであり(Aの価値観)、起立しない、斉唱しないという自由は侵害されてはならない。
(日の丸を壇上から下ろすということについては、式を妨害したということで罪に問われ、有罪になる可能性はあるのかもしれないと思いますが、たかが旗で権力が呼んでこられるというのもおかしいと思います。そういうケースでは公権力の濫用ということで無罪になるべきだと個人的には思います。)
ところが、現実の教育現場では、これがあべこべになっています。
@の価値観が制限を受けなければならないのに、@はAの価値観の者に対し強制し、Aの価値観の方が制限を受けるという事態になっているのです。
>価値観には自利を基にしたものと他利を基にしたものと二種類存在していると思っております。
>そして、他利を基にした価値観は、現代ではとても弱くなってきているように思うのです。他利を基にするものが必ずしも正しいとは言い切れないと思いますが、、。
利己主義と、利他主義という感じでしょうか。
ちなみに、個人主義というのは利他主義を含むものではないかと思います。
個人主義自体に、社会に対する責任が実は内在されており、その中に利他主義というものも入るように思うので。
>多様化とされる価値観にそれ程の重大性を見いだせません。
>むしろ、差別化、個別化を助長する言葉とは云えないでしょうか?
私はあんまりそういうふうには思わないのですが。
《参考》
以下、『憲法学教室』浦部法穂著 より抜粋。
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自分のことばかりで他人のことを考えない、というのは、「利己主義」であって、「個人主義」ではない。「個人主義」は、自立した「個人」を単位とし、そのような「個人」によって構成される「社会」というものを考えるから、「個人」が「社会」的存在であることは、前提となっている。したがって、自分のことばかりで他人のことを考えない、というのでは、「社会」的存在としての「個人」とはなりえないのである。
日本で、「個人主義」というものが、あまりよくないイメージでとらえられることが多い、というのは、日本社会が、「個人主義」とは逆の「集団主義」の要素を、なお強くもっていることの表れであろうと思われる。
「集団主義」の社会では、一人ひとりの集団構成員の権利・利益は、その集団が守る、という仕組みになる。したがって、一人ひとりの人間にとっては、自分の権利・利益を守るために必ずしも自分が何かする必要はなく、集団のなかでおとなしくしていさえすれば集団が守ってくれる、というわけであるから、ある意味で楽なシステムである。しかし逆に、集団のなかで、他の集団構成員とは違うことをしたり言ったりすれば、そのような人が集団のなかにいるということは、集団の結束力を弱め、集団による構成員の権利・利益保護の力を弱めることになるから、他の集団構成員にしてみれば、はなはだ迷惑な存在ということになる。だから、ここでは、「みんな同じ」(周りへの同調)がいいこととされ、「個」は無視される。
一方、「個人主義」の社会は、「個が尊重される反面、自分の権利・利益は自分自身で守らなければならない、という社会であるから、一人ひとりの人間にとっては、ある意味でしんどい社会である。自分の権利・利益は自分で守る、というのが、まさに「自立」のゆえんであるから、「自立した個人」を単位とする「個人主義」の社会が、そういうものであるのは当然といえば当然である。
しかし、自分の権利・利益は自分で守る、といっても、すべての人がその能力・手段を十分にそなえているわけではない。さまざまな事情(幼少、障害、高齢、貧困、等々)で、そういう「自立」のために他からの支援を必要としている人々は、現実に多くいる。そういう人々の「自立」を支援する(ただ「保護」すればいいというものではない!)仕組みを取り込んでこそ、「個人主義」は本当の意味での「個人の尊重」につながる。日本国憲法は、そういう意味での「個人主義」を前提としているというべきである。