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(回答先: 日本軍による人体実験 石井機関と731部隊 投稿者 姫 日時 2006 年 12 月 02 日 09:12:47)
特移扱
−細菌実験のための拉致、逮捕−
吉房虎雄
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/yosihusa_tokuiatukai.htm
ハルビンを東南に出はずれたところに平房という拉浜(らひん)線上の駅がある。この平房の南方の広大な耕地の上に、見るからに陰惨などす黒い高大な建物があった。その四周には、高い塀があって、厳に外界と遮断しており、さらにその外側には、鉄条網が張りめぐらされていた。汽車の中からこの建物を見る者に、まず奇異な感じをさせるのは、この建物に、不釣り合いな、高い煙突が、中空に聳え立っておることであった。これこそ防疫給水部の仮面をかぶった細菌研究所、石井部隊であった。
ここは軍事特別区域であり、要塞と同じく、関東軍司令官の許可がなければ何人も足を踏み入れることのできない秘密境であり、敗戦と同時に日本軍は、その秘密のバクロを恐れて、これを爆破してしまったのである。
日本帝国主義は、細菌と毒ガスの使用を禁止する国際条約に署名することを拒絶した。彼らは安あがりの細菌と毒ガスを、もっとも有効な殺戮手段として、早くから東京の陸軍軍医学校で、細菌攻撃の準備を進めるとともに、「満州医科大学」に、中国人民を材料とする実験拠点を作っていた。この陰謀を指導していたものこそ、人類の敵石井四郎であった。
九・一八(昭和6年9月18日のこと。満州事変が起こった)の後、天皇は、細菌攻撃を大規模に準備するため、七三一部隊、いわゆる石井部隊の設立を命じた。
傷を負った野獣の最期は、この上もなく凶暴野蛮なものである。1942年1月、石井四郎は、細菌実験の状況を見るため平房に行った関東憲兵隊司令官原守(はら まもる)と、同司令部第二課長吉房虎雄(私)にたいして、つぎのように語った。
「細菌攻撃の第一の特徴は、効力が偉大であることである。鉄による砲、爆撃は、その周囲一定の範囲のものを殺傷するだけであって、傷ついたものもすぐ回復して、ふたたび戦闘に参加することができる。ところが、細菌戦は、人から人へ、村から村へと、効力圏を拡大するばかりでなく、その害毒は、人体深く食い込んで、死亡率は、砲・爆撃にくらべて非常に高い。また、いったん傷つけば、回復は、きわめて困難で、ふたたび戦闘に加わることは期待し難い」
何と血に飢えた鬼の姿ではないか。また彼はつづけた。
「細菌攻撃の第二の特徴は、鉄の少ない日本にとっては、もっとも適当な戦争方法であり、経費も安いことである。まだ研究せなければならぬことが多いが、材料が不足で思うようにならぬ」
吉房(私)は、なるほどそうだ、よい話を聞いたと、腹の底からうなずいた。そして細菌戦争準備に協力することが、大平洋戦争が始まったばかりの、「重大時局」におけるもっとも大きな憲兵の任務の一つであると考えた。
原は帰り道の自動車の中で、「どうだ、よいものを見たろう」と吉房(私)に言った。吉房は、「そうです。ひじょうに大切であるから、帰ったらすぐ命令を出して、石井部隊への協力をいっそう強化することが必要だと思います」と言ったら、原は「そうだ、そうやれ」と即座に命令した。
人間性とか良心とかの一かけらも残っていない日本憲兵にとっては、人道主義や国際法規は、何の痛痒も感じなかった。
九・一八以後、日本帝国主義は、東北(満州)では「厳重処分」といって、現地部隊の判断一つで中国人民を、勝手気ままに惨殺することが公然とゆるされていた。だが、後から後へとつづく抗日烈士の抗争によって、この「厳重処分」も、1937年、表面上、禁止しなければならなかった。
その後、関東軍司令官・植田謙吉、参謀長・東条英機、軍医・石井四郎、参謀・山岡道武および関東憲兵隊司令官・田中静壱、警務部長・梶栄次郎、部員・松浦克己らのあいだで、秘密裡に、この「厳重処分」にかわる中国人民虐殺計画が押し進められていた。それは、なるべく簡単に、無制限に、中国人民を細菌培養の生体材料として手に入れることであった。
1937年末、軍司令官は「特移扱規定」という秘密命令を出した。その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。
1941年8月、新たに、関東憲兵隊司令部第三課長として着任した吉房中佐(私)は、大佐に進級するのに差しつかえては困ると、一生懸命「成績をあげる」ことを考えていたが、石井部隊見学を機に、「特移扱」を増加するにかぎると思いついたのである。そして、それに都合のよい「国境防諜」や、無線探査などを強化する命令を出して、各憲兵隊を督励したばかりでなく、賞金や賞状を出すなど、いろいろ方法をつくして特移扱を増加するよう要求した。
吉房が主任として出した命令にたいし、隷下の憲兵隊長は、餌を求めていた豹のように食いついて来た。憲兵は血まなこになった。そして「功績」をあげて、「賞状」や「賞金」をもらい、「進級」し「栄転」した。
1941年、鶏寧憲兵隊長堀口正雄は、半載河分遣隊長・津田准尉が、将校に進級する手段として、国境付近の善良な中国人民3名を、機密を探知したとデッチ上げたのを、1943年、奉天憲兵隊特高課長小林喜一は、日本軍の情況を探知したとの理由をもって逮捕した愛国者二名を、「逆用」しようとしたが、これに応じなかったので、また1944年、牡丹江憲兵隊長平木武は、漢奸の造言によって中共の情報部員であるとの理由で、部下の今別府(こんべっぷ)少佐が逮捕して、長期の残酷な拷問を加えて歩行できないほどの傷を負わした青年の始末に困ったあげく、それぞれ、特移扱にした。
1940年、佳木斯(チャムス)憲兵隊長であった橘武夫中佐は、他人よりも早く大佐になる、しっかりした土台をここでつくらねばならぬと考えていた。自分の利益にかけてはあくまでも目さきの利く彼は、この地区が、従来から救国活動の根拠地であることを種に一芝居打とうと考えた。彼は新京で分隊長をしていたころ宗教関係、とくに「在家理(信仰中心に集まっている秘密結社)」を深く研究していたので、これから手をつければ相当数の人を反満抗日分子としてデッチ上げに成功すると考え、特務に命じてこの方面の関係者として数十名のブラックリストを作ることができた。
そこで、彼は、一挙にこの数十名の平和な人民を逮捕して、あらゆる拷問を加えて見たが元より無実のことだから彼が欲するような結果が出るはずはなかった。そこで彼は、はじめから胸の奥に計画していた憲兵の奥の手、「特移扱」を持ち出して、十数名を石井部隊に送った。このいわゆる「優秀な成果」が物を言って、彼は憲兵隊司令部の課長や大佐になる基礎を作った。
1944年8月、鶏寧憲兵隊長となった上坪鉄一中佐は、国境憲兵隊の「成績」をあげるには、特移扱を最大限に利用することが、もっともよいやり方であることを知り抜いていた。中佐に進級したばかりの彼は、ただ将来の栄達を明け暮れ考えていた。その年の11月はじめ、ついに彼は、軍事情況を探知し、また、反満抗日運動をおこなったとの理由をデッチ上げて、平陽に居住する善良な農民張王環女史とその父親を中心とする15名を逮捕した。
上坪はこれを何とか「もの」にしなければならんとあせりながら、部下の尻をひっぱたいた。平陽分隊長曾場中尉以下30名の憲兵は、一ヶ月あまりにわたってロクに食物も与えず、睡眠もとらせず、あらゆる凶悪な拷問を加えたが、何の事実も発見することはできなかった。上坪はたまりかねて、みずから平陽に行って、直接拷問を指揮した。
張女史はほおが落ち、髪は乱れ、蒼白になった顔は、傷だらけで腫れあがっていたが、ただ、「ソ同盟に行って、中国の農民の死に瀕する苦しみを訴えただけだ。何が悪いか?」と述べるだけで、ほかに一言も発しない。
また、その父親の老人は、顔に血のにじんだ青ぶくれが二つ、痛々しく腫れあがって、人相もまったく変わってしまっているが、「おれが生まれた中国で、中国人の将来を心配することがなぜ悪いか。どんな理由で逮捕したのか?」と毅然たる態度で言いはなち、確信にみちた底力のある眼光は、鋭く光っていた。
この愛国の情熱に燃える態度にふるえあがった上坪は、もう一カ月にもなるからここらでけりをつけねばならぬと焦ったが、これ以上どんな拷問を加えても無駄なことをさとらないわけにはゆかなかった。だが、これほどひどい拷問の傷痕のあるものを釈放するわけにはゆかないし、また、法廷には事実があまりにも薄弱である。いわんや、「15人を検挙した重大事件」だと司令官に報告した手前からして、どうしてもこの事件を、自分の「成績」としなければならない。それには石井部隊に送るにかぎると考えたあげく、張女史とその父親も含めて、拷問傷の大きなもの6人を「特移扱」にして石井部隊に送り、そのほかは、渋々ながら釈放した。
このように、特移扱をしようとする憲兵隊は、「丸太何本送る。」とか「荷物何個送る」とかいう記号をもって、ハルビン憲兵隊に連絡した。
その記号に該当する数の愛国者は、ハルビン駅でハルビン憲兵隊に引きつがれて、さらにハルビン特務機関に送られた。そこの留置所で、ふたたび瀕死の拷問を加えられたあげく、深夜特別の輸送自動車で、最後の地獄、石井部隊に送り込まれたのである。
こうして、憲兵が特移扱にした中国の愛国者は、1942年の1ヵ年で、少なくも150名以上に達し、そのほか特務機関と偽保安局から送る愛国者を加えて、1937年以来、約9年のあいだに、石井部隊で虐殺された愛国者の数は少なくも4000名におよんでいる。
この4000名の愛国者は皆、1942年1月、私が見に行ったあの石井部隊の一室で、無惨にも殺されて行ったのである。あの時私は、石井と原の後から、オズオズしながらくっついて行った。
石井部隊の玄関から、何回か厚い丈夫な扉を開けてはいって行くようになっている、幅1メートル50、長さ15メートルぐらいの廊下の中央から右に行く通路があって、その両側に、鉄格子のついた留置所がずらりと並んでいた。その中にペストを感染さすところがあった。
その第一番目の留置場では、中国の労働者風の、薄紺の服を着た四〇歳前後の男があお向けに寝たままペストを感染させられていた。薄暗い光線を受けて、目をつぶったままの青白い顔は、蝋細工のようだった。動けないように縛りつけてあるのか薬でねむらしてあるのか分からないが、ちょうど屍室の死体のようであった。
その隣の留置所には35、6歳になる、骨と皮に痩せてしまった男が、後手に縛られてすわっていた。
ゴム製の手袋と外皮と靴をつけてマスクした軍医が、その男の、一握りほどしかない股を押さえつけて、蚤に食いつかせてペストを感染させていた。痩せた肩から落ちそうになった、ボロボロの薄い破れ服の間から見える骸骨のような胸には、直径一寸近くの潰瘍が五つ、痛そうにカサブタを作って、胸いっぱい赤く色どっていた。
「これはペスト菌を感染さした痕ですよ」と石井が説明した。
「ペスト患者の特徴は足元がふらつくことですよ」と石井はつけ加えた。
軍医に革の鞭でひっぱたかれて立ちあがった男は、二、三歩フラフラッと歩いたかと思うと、枯木のようにドターンと倒れて、ウーッと長いうめきをあげた。
廊下は突き当たってすぐ右に曲がった。曲がったすぐのところに、手錠と足錠をかけられた35、6歳の、農民風の三人の男が、両膝を立てて、その上に両腕を置いて座らされていた。3人とも痩せ衰えているが、憎悪に燃え立つ6つの瞳は、射るように私たちを見上げていた。
その目は薄暗い窓の明かりを受けて、鬼気をともなって私に迫った。私は背中に冷水を浴びたようにおののいた。
「これは凍傷実験をやったのです」と石井が説明した。5本の指は第2関節から先が腐れ落ちて、その切れたところは、赤色と乳白色が入り混じってドロドロになって腐れ、ただれていた。これは凍傷後、零度の水と体温ぐらいの湯につけて処置して、その結果を実験したのである。
無限の痛恨と堪えがたい痛みをこらえて、両手を抱えるようにして坐っている3人の目は、いまにも飛びかかりそうな形相で石井をにらみすえていた。
廊下を3メートルぐらい行って左に曲がると、すぐ解剖室の入口に出た。3人の軍医が頭をすりつけて何かのぞき込んでいたが、石井を見ていっせいに敬礼をした。
幅3メートルぐらいの室の真ん中に大きな解剖台があり、その上に人間の胴体が置かれていて、肋骨が一本一本はっきりと見え、血がポタリポタリ滴ってドス黒く光っていた。
頭蓋骨が断ち割られて、脳みそが出たままの頭が、胴体の右側に転がっており、バラバラに切断された手と足は、室の右隅に放り投げてあった。生臭い臭いがプンと鼻をついた。
「解剖した死体はあの竈に入れて焼いてしまいます。臭いがしないように、煙突はとくに高くしてあります。この解剖室で働いていた軍医で、気違いになったのがありますよ」と、石井が冷ややかな笑いを浮かべて説明した。
こうして、4000人の愛国者は、あるものはコレラ、ペスト、チフス、赤痢その他いっさいの細菌を植えつけられて殺され、あるものは生きたまま解剖され、その他のものは、凍傷実験をやられたり、生きたまま神経を抜きとられたり、トーチカ爆破の実験に使われて爆破されたり、小銃弾傷の実験で毒殺されるなど、この世において、これ以上ありえないあらゆる苦痛を強いられて殺されていった。
あの高い煙突から、毎日毎夜、白い煙が大空に吐き出されてゆく。あの白い煙の中に、日本帝国主義にたいする無限の憎しみと恨みをこめて倒れていった愛国烈士の、無言の厳粛な抗議がひびいている。あの白い煙は中国人民の勝利と人類の幸福を築く尊い礎石となって、人類の歴史の上に永遠に日本帝国主義の罪悪を刻みつけている。
(よしふさ とらお 中国帰還者連絡会会員 57年5月没)
【略歴】
1897年 長崎県に生まれ、
1921年8月 陸軍士官学校卒業。
1932年5月 憲兵に転じ、
1944年8月 平壌憲兵隊長となり敗戦しました
本件は、私が関東憲兵隊司令部員「第三課長」時代のものであります。
註記
偽満州国で憲兵を勤め、一九四四年三月の大連事件で逮捕した中国の愛国者四人を「特移扱」としてハルビン平房に移送した三尾豊氏は、各地での証言活動で、慙愧をこめて「特移扱」に対する認識を次のように語っている。
七三一部隊に移送された人々は、決して死刑囚などではない。死刑囚なら生体実験に使用しても良いというのなら、何も「特移扱」を作る必要はなかったはずだ。
裁判所の判断で、事実関係が明らかになり、判決の下った人をマルタとして処理することはできない。「特移扱」とは捕らえた人を、正常な手続きを経ずに勝手に処理する権利を与えたものだ。
非人道的な「特移扱」は、日本の傀儡国家満州でなければ実現不可能であったし、人間性を全く無視した日本の侵略軍にして初めて実現可能となったといえよう。
憲兵が「特移扱」をしなければ、七三一部隊のかくも大掛かりな罪行は実現できなかった筈だ。従って憲兵の「特移扱」と七三一部隊は手を携え共同して残酷な殺人行為をおこなった。私(憲兵)の罪行は決して「ただ、送っただけ」ではないのだ。
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