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第4回 日本軍による人体実験
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/vuniv99/exp-lec4.html
今回は、日中戦争および太平洋戦争の時期に、日本軍によって中国で行われた人体実験についてまとめてみます。
1. いつから、どこで行われたか
(1) 石井機関と七三一部隊
日本軍による人体実験の舞台は中国でした。その中で最もよく知られている七三一部隊(関東軍防疫給水部)は、石井四郎軍医中将(階級は終戦時)によって作られ、中国東北部のハルビン郊外にありました。それは致死的な生体実験を秘密裏に行うための特別な一大研究施設でした。しかしながら最近の研究によると、七三一部隊は、中国各地からシンガポールなどの南方にまで広がる石井の防疫給水部ネットワーク(「石井機関」)の一部にすぎなかったことが明らかにされています。石井機関のかなめは七三一部隊ではなく東京の陸軍軍医学校防疫研究室にあり、その活動には当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが嘱託として大勢協力していました【詳細は、常石敬一『医学者たちの組織犯罪』、を参照】。
1931年9月18日、関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍による攻撃として、戦争を開始しました(いわゆる満州事変)。そして中国東北部を支配下におさめ、翌1932年、満州国の建国を宣言します。1930年に2年間の欧米出張から帰った石井四郎軍医はこのような状況下で、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いて回りました。説得は功を奏し、まず1932年に陸軍軍医学校防疫研究室が設立され、翌1933年には近衛騎兵連隊の敷地(現在の東京都新宿区戸山)を譲り受けて研究施設が完成しました。また、細菌兵器を開発するための本格的な実験・製造施設は満州に作ることにし、1933年にハルビン郊外の背陰河に「東郷部隊」(または「加茂部隊」)が秘密裏に発足しました。すでにこの背陰河の施設で中国人を生体実験に用いて殺すことが始められています。東郷部隊は1936年には「関東軍防疫部」として日本陸軍の正式な部隊になりました。
日本軍は1937年7月7日に北京郊外の蘆溝橋で中国軍と交戦し(蘆溝橋事件)、中国への全面的な侵略戦争を始めます。中国戦線で石井は、汚水を清澄な水にする「石井式濾水機」の性能をデモンストレーションして陸軍に正式採用してもらい、防疫だけでなく給水の仕事も行う「防疫給水部」を、北京(北支那派遣軍防疫給水部、1938年発足、後の第一八五五部隊)南京(中支那派遣軍防疫給水部、1939年発足、後の第一六四四部隊、別名「栄部隊」「多摩部隊」)広東(南支那派遣軍防疫給水部、1939年発足、後の第八六〇四部隊)シンガポール(南方軍防疫給水部、1942年発足、後の第九四二〇部隊)にも発足させました。
一方、関東軍防疫部は、ハルビン市街の南東約15kmの平房に、背陰河の施設よりも堅固で本格的な設備を備えた施設を建設し、1938年から39年にかけて移転しました。1940年には「関東軍防疫給水部」と改称し、牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに支部を持つようになります。平房の本部は1941年に「満州第七三一部隊」と改称されました(支部も合わせた関東軍防疫給水部全体は第六五九部隊)。七三一部隊は4つの支部以外に、大連にあった南満州鉄道の研究所も傘下に収めて支部とし、さらに平房の約260km北の安達には細菌兵器の実験場を持っていました。また関東軍は防疫給水部とは別に、新京(現在の長春)に「軍獣防疫廠」(1936年設立。1941年に「満州第一〇〇部隊」と改称)を持っていました。ここは軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当しており、人体実験も行っていました。
平房の七三一部隊では、約6km四方の敷地に3000人あまりの人々が細菌兵器の研究・開発・製造に従事していました。主要な施設の集まった地区は、高電圧電流が流れる有刺鉄線を張り巡らした土塀で囲まれ、外部から完全に遮断されていました。中心になる建物は「ロ」の字型をしており、その内側に「マルタ」と呼ばれた被験者を閉じこめておく特設の監獄が二つ設けられていました。背陰河では「マルタ」の脱走事件が起こったため、平房の特設監獄はきわめて厳重な構造になっており、ここから生きて出られた人は1人もいませんでした。ソ連参戦後の撤退時に生き残っていた被験者も、証拠隠滅のために全員殺されました。
七三一部隊の組織はだいたい以下のようになっていました【森村誠一『新版・悪魔の飽食』pp.21-23;『悪魔の飽食・第三部』口絵「関東軍防疫給水部本部施設全図」などによる。----は所属関係を表す】。
・部隊長----特別班(「マルタ」担当)
・総務部
・第一部(細菌研究)----笠原班(ウイルス研究)田中班(昆虫研究)吉村班(凍傷研究)高橋班(ペスト研究)江島班(のちに秋貞班、赤痢研究)太田班(脾脱疽【炭疽】研究)湊班(コレラ研究)岡本班(病理研究)石川班(病理研究)内海班(血清研究)田部班(チフス研究)二木班(結核研究)草味班(薬理研究)野口班(リケッチア・ノミ研究)在田班(X線研究)
・第二部(実戦研究)----八木沢班(植物研究)焼成班(爆弾製造)気象班
・第三部(濾水器製造)----運輸班
・第四部(細菌製造)----柄沢班(細菌製造)朝比奈班(発疹チフスおよびワクチン製造)有田班
・教育部(隊員教育)
・資材部(実験用資材)
・診療部(付属病院)
このうち生体実験を行っていたのは、細菌兵器の開発に携わっていた第一部・第二部・第四部でした。生体実験が行われた場所は、本部の特設監獄に隣接した実験室や気密室、本部内の冷凍室、安達の実験場などでした。
「マルタ」にされたのは「特移扱」と呼ばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人たちでした。彼らは「諜者」(スパイ)や「思想犯人」(民族主義者や共産主義者)の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などで、その中にはごく普通の農民や女性・子どもも含まれていました。彼・彼女たちは七三一部隊からの要求に応じて各地の憲兵隊から汽車でハルビン駅へ護送され、ハルビン駅からは擬装された列車やトラックで平房の部隊の監獄へと送り込まれました。また、ハルビンでソ連のスパイとして捕まったロシア人は特務機関へ回されて取り調べを受け、口を割らなかったり、二重スパイになるのを拒んだり、逃げようとした者が「特移扱」になりました。こうして実験材料にされ殺された人々の数は3000人以上にのぼるといわれています(ちなみにこの3000人という数字は、背陰河の施設や、七三一部隊以外の石井機関の施設における犠牲者の数を含んでいません。これらの施設や陸軍病院での犠牲者も含めると、総数はずっと多くなります)。
七三一部隊での実験の結果は、逐一、東京の軍医学校防疫研究室に送られていました。防疫研究室は石井機関における研究の全体を統括する役割を担っており、嘱託の教授たちを集めて研究発表会を行ったり研究論文集を編集したりする一方、教授たちを通じて若手の優秀な研究者を七三一部隊に送っていました。
(2) 中国各地の陸軍病院
医師の手によって捕虜の殺害が行われたのは石井機関だけではありませんでした。そのほか中国各地に設置されていた陸軍病院で、1933年頃から、捕らえた中国の人々を、軍医教育のための「手術演習」と称して生きたまま解剖したり、人体実験をしたりして、殺すことが行われていました【詳細は、中央档案館ほか編『生体解剖』;吉開那津子『消せない記憶』、を参照】。
2. 何が行われたか
日本軍によって行われた人体実験(生体を用いた殺人的実験)には、次のようなものがあります【詳細については、テキストおよび参考図書を参照】。
(1) 手術の練習台にする
(いわゆる「手術演習」。生きた人を使って戦傷などの手術[虫垂切除、四肢切断、気管切開、弾丸摘出など]の練習をして殺す)
(2) 病気に感染させる
(ペスト、脾脱疽【炭疽】、鼻疽、チフス、コレラ、赤痢、流行性出血熱など。その目的は、未知の病原体を発見するため、病原体の感染力を測定するため、感染力の弱い菌株を淘汰し強力な菌株を得るため、細菌爆弾や空中散布の効果を調べるため、など、さまざま。被験者は死後に解剖されたり、感染確認後に生きたまま解剖されて殺されました)
(3) 確立されていない治療法を試す
(手足を人為的に凍傷にしてぬるま湯や熱湯で温める[凍傷実験]、病原体を感染させて開発中のワクチンを投与する、馬の血を輸血する、など)
(4) 極限状態における人体の変化や限界を知る
(毒ガスを吸入させる、空気を血管に注射する、気密室に入れて減圧する、食事を与えずに餓死させる、水分を与えずに脱水状態にする、食物を与えずに水や蒸留水だけを与える、血液を抜いて失血死させる、感電死させる、新兵器の殺傷力テストを行う、など)
(1) は上述のように軍医教育の一環として、各地の陸軍病院などで行われました。一方、(2) (3) (4) は七三一部隊をはじめとする石井機関で主に行われました。実験経過は記録され、映画フィルムに撮影されて、軍医および軍属(軍人ではなく、軍に所属する民間人)の医師たちによる部隊内の報告会で発表されました。
また七三一部隊は、中国大陸において実際に細菌兵器を使用していたことが明らかになっています。それは少なくとも、ノモンハン作戦(1939年)寧波作戦(1940年)常徳作戦(1941年)ズエガン作戦(1942年)の4回ありました【常石敬一『七三一部隊』p.145】。寧波作戦では、ペスト菌で汚染したノミ(「ペストノミ」)を穀物や綿にまぶして爆撃機で投下し、100人以上の住民がペストで亡くなっています。
3. なぜ行われえたのか
ところで、以上のような残虐な人体実験は、どうして行われえたのでしょうか。こうした、普通ならとても行えないような非人道的なことを、陸軍病院や石井機関の部隊で行えたのは、なぜなのでしょうか。
(1) 戦争という時代状況
まず、当時の日本は戦争を行っていた、という時代的背景があります。1931年以降、日本は中国東北部を軍事的に支配し、抵抗する中国国民党軍や八路軍(共産党軍)と散発的な戦闘を行っていました。1937年には華北以南に侵攻して、宣戦布告なきまま日中間の全面戦争に突入しました。日本本土では戦時統制経済が強化され、1938年には国家総動員法が制定されています。1939年にはノモンハンでソ連と交戦し、1941年12月には米英に宣戦布告して太平洋戦争が始まりました。こうした時代状況は、少なくとも以下の二つの点で重要と考えられます。
一つは「お国」と「天皇陛下」のために戦い勝利するということが至上目的となり、そのためにはどんなことをしても許されるように思われた、ということです。石井機関で行われた細菌兵器や前線で役に立つ治療法(凍傷、ワクチン、異種間輸血など)の研究開発、ならびに陸軍病院での「手術演習」は、「お国の勝利のため」「天皇陛下のため」という建前によって正当化されていました。
二つ目は、中国や朝鮮の軍事的支配は、中国や朝鮮の人々を日常的に虐待したり殺害することによって維持されていたので、人体実験や生体解剖による殺害を《けっしてやってはならないこと》とする倫理的判断力が失われる傾向にあった、ということです。いわゆる「南京大虐殺」や平頂山事件などの著名な事件を挙げるまでもなく、労役に駆り出した現地住民の虐待や殺害、スパイやレジスタンスないしその協力者と疑われた人々の拷問や虐殺が日常的に行われていたことは、多くの証拠によって明らかになっています。石井機関の各部隊や各地の陸軍病院で行われた人体実験・生体解剖による殺害は、そうした数多くの虐殺の一環をなしていました。また、日本軍の将校や兵隊が中国軍やレジスタンスとの戦闘で死亡することもあったので、報復感情も殺害への心理的抵抗を弱めるのに一役買っていたと考えられます。
(2) 人種差別・民族差別・思想差別
また、当時の日本人は、他の民族の人々を差別し見下していました。日本本土で生活しているかぎり他の民族の人々に接する機会がほとんどないという特殊な事情が《他の民族の人々は人道的に扱うに値しない存在なのだ》という偏見につながっていきます。
まず、ロシア人や米国人、英国人などの「白人」に対しては、劣等感の裏返しとして、まぎれもない人種差別感情がありました。前回の講義でも見た通り、ナチス・ドイツにおいては人種差別が、ユダヤ人やロマ(いわゆるジプシー)の人々やスラブ人を「人間以下の存在」とし抹殺することの背景をなしていました。同様のことが日本においても起こっていたと考えられます。
次に、身体的特徴では日本人とほとんど区別できないにもかかわらず《中国人や朝鮮人・モンゴル人は劣等な民族であり、同じ人間として扱わなくてもかまわない》という「民族差別」が当時の日本社会に遍在していました。これはたとえば関東大震災の際の朝鮮人虐殺となって表れています。民族差別は人種差別と構造的にはまったく同じであり、ただ、中国人や朝鮮人やモンゴル人が日本人と同じ「人種」であることは否定できないので、差異の根拠を「人種」ではなく「民族」に求めた、という点だけが異なっています。
さらに、スパイの疑いをかけられたロシア人や、レジスタンスの八路軍兵士には、共産主義者に対する恐怖と憎悪の眼差しも向けられました。社会主義や共産主義に対する思想差別のために、日本本土でも「アカ」とされた人々が拷問や虐殺に遭った時代ですから、まして「外地」の「筋金入りのアカ」に対しては、残虐に扱うことへの抵抗が少なかったと推測されます。しかも、捕らえられても毅然として拷問に屈しないソ連のスパイや八路軍兵士には、なおさら恐怖と憎悪の念を募らされたことでしょう。
以上のような民族差別・人種差別・思想差別は、中国人や朝鮮人・モンゴル人・ロシア人の捕虜を「同じ人間」として取り扱わなくてもいいとする主観的根拠を与えていたと考えられます。
(3)「どのみち殺される」者の「利用」
スパイやレジスタンス、あるいはその協力者という疑いをかけられて憲兵隊や特務機関に捕らえられた人々は、多くの場合、拷問を受け、正式な裁判もないままに処刑されていました。すなわち彼・彼女らは「どのみち殺される」存在とされていたのです。そこで「どうせ死ぬのなら、お国のために役立って死ね」という論理によって、人体実験や生体解剖による殺害が正当化されていました。この点でも、絶滅収容所のユダヤ人やロマの人々やポーランド人を実験に「利用」したナチスと、構造的に共通しています。
(4) 密室状況
しかしながら、さすがに関係者は、人体実験や生体解剖に用いて殺すことは人道的にはかなり問題があると、考えてはいたようです。少なくとも、そのことが国際社会に知れると、日本にとって非常にまずいことになる、という認識は共有されていました。だからこそ、それらの事実は「秘中の秘」とされ、関係者は固く口止めされ、敗戦時には徹底的に証拠隠滅されたのです。しかし、秘密を守るために密室の状況で行われたことが、外部の目を気にかけなくてすむ環境を作り出し、一般の人々の価値観から遊離して、行為の非人道性に対する感覚をますます鈍らせることになりました。
4. 医師たちはなぜ加わったのか
しかしながら、人体実験や生体解剖を行ったのは、一般に患者の苦痛を取り除き生命を救うのが使命とされる医師たちでした。軍医の中には最初から軍医になるために医学教育を受けた者もいましたが、むしろ戦時下でやむなく、一兵卒になるよりは短期的に軍医になることを選んだ医師たちが大部分でした。また七三一部隊で中心になって人体実験を行っていたのは、軍医よりもむしろ、軍属(技師)として派遣されてきた、大学の講師や助教授クラスの医学研究者たちでした。彼らは七三一部隊や陸軍病院になぜ赴いたのでしょうか。人体実験や生体解剖に加わることを拒めなかったのでしょうか。
(1) 時代状況
まず第一に、当時の日本には《軍に協力してお国のために尽くすのは当然》という雰囲気があったことが挙げられます。軍医として中国山西省の陸軍病院へ赴き「手術演習」を行った湯浅謙は、医大を卒業した1941年に徴兵検査を受けて入隊していますが、その理由を「医学生は徴兵を猶予されていたが、学校を卒業した以上、軍人になることは、のがれられない運命とわたしは思っていた」【吉開那津子『消せない記憶』p.38】「わたしはもちろん、戦地へいって戦争などしたくはなかったが、仕方のないことだ、と思っていた」【同、p.39】と述べています。このような社会状況下でもし軍に協力しなければ、人々から「非国民」との罵られることは必至でした。そして、いったん入隊して軍医になってしまったら、生体解剖や人体実験に手を染めないために赴任命令を拒むことは軍法会議にかけられることを意味し、よほどの勇気と覚悟がなければ不可能だったでしょう。
また湯浅は、「手術演習」を実施すると病院長から初めて告げられたときのことを、次のように回想しています。
わたしは、いよいよ来るものが来たな、というような引き締った気持でそれを聞いた。というのは慈恵医大の医学生の時代、軍医になって大陸へ渡れば、生体解剖をやる機会があるらしいということをすでに聞かされていたからである。軍医として中国へいった者は、ほとんどの者がそれをやるということは、医学生に知れ渡っていた。【吉開那津子『消せない記憶』p.65】
これは、湯浅たち軍医が、だまされて人体実験や生体解剖による殺害に手を染めさせられたのではなく、わかっていながら「みんなやっているから、そうせざるをえない」と力無く諦めて荷担していったことを示しています。ここには、世の大勢に流されやすい日本人の倫理的弱さがあらわになっていますが、当時の時局の流れがそれだけ強いものであったことも否定できません。
(2) 医局講座制と防疫研究室嘱託制度
また、軍属の医学研究者たちは、別の種類のしがらみに縛られていました。それは「医局講座制」における教授の大きな権力です。大学の医学部には専門の研究室(講座)ごとに1名の教授を頂点とする権力構造が存在し、とくに教授は弟子の人事に関して裁量をふるっています。弟子たちは出身の講座に協力して「医局」を構成し、師である教授の意向に逆らうことができません。逆らえば医局で村八分にされ、研究者としての道を断念せざるをえないのです。
たとえば、七三一部隊できわめて残虐な凍傷実験を行っていた吉村寿人は、京都大学の講師を務めていたときに、師であった正路倫之助京大教授から七三一部隊行きを命じられました。吉村は、それまで行っていた研究を捨てるのがいやで即座に断ったところ、正路に「今の日本の現状からこれを断るのは以ての外である」と叱られます。それでも行きたくなくて、故郷から母親を呼び寄せて断りに行かせたところ「もし軍に入らねば破門するから出て行け」と言われ、しぶしぶ満州行きを承諾しました【常石敬一『医学者たちの組織犯罪』p.222】。
しかしながら、正路はなぜこうまで強硬に吉村を七三一部隊へ行かせたがったのでしょうか。それは、すでに正路が、吉村を平房に行かせると石井四郎に約束していたからだと考えられます。吉村自身のちに「何か先生が軍の方と既に約束済みの様な様子であった」と書いています【常石、同上、による】。石井は、出身大学である京都大学医学部の教授たちの協力を取り付けていました。京大だけでなく、東京大学医学部、東京大学伝染病研究所、大阪大学、慶応義塾大学、東北大学、熊本医科大学、北海道大学、金沢医科大学などの教授たちを、陸軍軍医学校防疫研究室の「嘱託」にしていたことが判明しています。石井はこれらの教授たちを通して優秀な弟子を石井機関へ派遣してもらい、研究者を確保していたのです。1944年5月から七三一部隊の「内海班」に加わって血清研究をしていた秋元寿恵夫医師は、指導教授の緒方富雄東大教授から「あそこなら、研究を続けることがそのまま入隊するのと同じになるのだから、どうだ行かないか」と勧められた二つの場所のうち一つが七三一部隊だった、と述懐しています【秋元寿恵夫『医の倫理を問う』p.61】。緒方も防疫研究室の嘱託に名を連ねる1人でした。
また、教授たちとしても、石井に協力することで、研究費を確保したり、戦時下で調達困難になってきていた研究資材などの便宜を図ってもらうことができました。自らの研究のために石井機関で人体実験をしてもらうこともあったようです。
このように、石井機関は、もともと関連病院などのポストが少ない基礎医学系講座の教授たちにとっては弟子を送り込む格好の場所であり、貴重なデータを提供してくれるまたとない実験施設であり、研究上のパトロンでもありました。石井のほうでも、防疫研究室の嘱託であるこれらの教授たちは、研究協力者であったと同時に、石井機関の中核をなす優秀な研究者の供給源だったのです。人体実験や生体解剖による大量虐殺が「医学者たちの組織犯罪」であったといえるのは、石井機関と医学界がこうした密接な「共犯関係」を結んでいたからなのです。
(3) ほかでは得られない研究環境
いやいやながら送り込まれた吉村のような研究者にとっても、石井機関の研究施設は、研究費・設備・研究資材のどの点でも、夢のようにぜいたくな場所でした。七三一部隊は当時の金で年間1千万円(今日の貨幣価値にして約90億円)もの莫大な経費を使っており、その半分の500万円が研究事業費でした(残りの半分の500万円は人件費)。研究費は湯水のごとくあり、高価な電気冷蔵庫が少し故障しただけで修理もされずにたくさん放置されていたほどでした。国家総動員体制が敷かれていた日本にあって石井機関は、そこで自分の研究テーマさえ見つけられれば、制約なく研究に没頭できる「理想的」な環境にあったのです。
しかも、流行性出血熱やペスト、発疹チフス、重度の凍傷など、日本本土ではめったに見られない「症例」が、そこにはありました。吉村は七三一部隊で行った凍傷の研究により、戦後この分野の日本における権威となり、学術会議の南極特別委員会の委員を務め、京都府立医大の学長にもなっています。また、同じく七三一部隊に加わった病理学者の石川太刀雄丸は、ペストや流行性出血熱の病理解剖を多数行い、標本を日本に持ち帰っています。七三一部隊の部隊長を務めた北野政次も、人体実験によって流行性出血熱の病原体を確保することに成功したといわれています。このように、石井機関はそこに送られた研究者たちにとって、日本本土ではけっして行えない研究を行うことのできる貴重な場所となったのです。
もっとも、石井機関で行われていた研究は、軍事研究という性質上、その成果を国際的に公表して科学史に名を残す業績とすることはできないようなものばかりでした。しかしながら、石井機関内では、各大学の嘱託を集めて定期的に研究発表会を開き、雑誌『陸軍軍医学校防疫研究報告』を編集・発行して、研究成果を共有していました。このように学術団体ふうの体裁を整えることで、研究者の研究意欲をかき立て、科学者としてのエトスや欲求を満足させていました(実際、戦後になって『陸軍軍医学校防疫研究報告』に掲載された自分の論文を自らの学術的業績に挙げている研究者もいます)。世界から孤立していた当時の日本の立場を反映して、科学者たちは研究成果を国際的に発表することをあまり重要視していませんでした。国内的な名声なら日本国内だけにしか通用しない論文でも十分得られますし、戦時下においては、むしろ日本だけを益し敵国を害するような科学研究が求められます。すなわち、国家総動員体制において科学研究はみな多かれ少なかれ軍事研究へと変質し、科学のグローバルな普遍性という理念は打ち捨てられてしまったのです。
5. 実行者たちは戦後どうなったか
1945年8月9日、ソ連が太平洋戦争に参戦して満州へ攻め込んできました。この日から石井機関は、細菌兵器の開発や使用、および被験者虐殺の証拠を隠滅することに全力を傾けます。七三一部隊ではまず、生き残っていた「マルタ」を全員殺害し、遺体を焼却して捨てました。実験を記録した書類やフィルムなども焼却されました。主要な施設は工兵隊によって爆破され、とくに「ロ」号棟や特設監獄は念入りに破壊されました。また、部隊員やその家族は、ソ連に捕らえられないよう、特別列車でいち早く帰国しました。そのおかげで、ソ連や中国の捕虜になった七三一部隊の幹部や部隊員はわずかしかいませんでした。
(1) 米国による戦犯免責
【詳細は、常石敬一『医学者たちの組織犯罪』;太田昌克『731免責の系譜』、を参照】
日本を占領した米軍は、ただちに石井機関の調査を始めました。しかし、それは戦犯告発のための調査ではなく、細菌兵器研究の成果についての調査でした。1942年に細菌兵器の研究開発に着手したばかりの米国にとって、石井機関の研究成果は国防上非常に重要なものとみなされたのです。8月28日に厚木に到着した第一陣の調査団は、細菌兵器のみならず、日本における原爆や化学兵器などの研究成果を調査するためのものでした。
この調査団で石井機関の調査を担当したのは、米国の細菌兵器の研究施設キャンプ・デトリックのマレー・サンダース軍医中佐でした。そして通訳として呼ばれたのは偶然にも、石井機関の中核である陸軍軍医学校防疫研究室を実質的に取り仕切っていた「石井の番頭」内藤良一軍医中佐でした。最初の一ヶ月間、めぼしい成果をまったく上げられなかったサンダースは、焦って内藤に、戦犯として訴追しないことを約束する代わりに真実を語るよう迫ります。この戦犯免責の約束は、参謀二部のウィロビー少将や連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥と相談の上でしたが、ワシントンDCの米本国政府の承認を得たものではありませんでした。いずれにせよ内藤はそこで、人体実験は決してやっていないこと、そして、石井機関の中心は平房の七三一部隊にあったこと、という二つの重要な点でサンダースを欺く一方、それ以外の点では七三一部隊の組織や研究内容について、ある程度踏み込んだ情報を提供しました。内藤の二つの嘘のうち「人体実験はやっていない」という嘘はやがて米国にもばれることになりますが、「石井機関の中心は七三一部隊」という嘘は国際的にも国内的にもその後長く通用し、石井機関の活動に組織的に荷担していた日本の医学界を護る役割を果たしています。
病気で帰国したサンダースの後を受けたアーヴォ・トンプソン獣医中佐は、石井四郎と、1942年8月から1945年3月まで石井に代わって七三一部隊の部隊長だった北野政次を尋問しますが、その際にも再び、戦犯に問わないという約束を確認しています。GHQには元七三一部隊員から人体実験に関する匿名の告発が多数寄せられていたにもかかわらず、トンプソンもサンダースと同じく、人体実験が行われていた事実を突き止めることはできませんでした。
米国が人体実験の事実を明確に認識したのは、1947年1月にソ連から、石井らの身柄を引き渡すよう要求を受けたときです。ソ連は、押収した文書や捕らえた七三一部隊関係者の供述から、細菌戦が実行されたことと、人体実験によって多数の中国人やロシア人などが殺されていたことの証拠をつかんでいました。ソ連は米国に、七三一部隊が蓄積していた細菌戦のノウハウを米ソの2国で共有するよう暗にもちかけ、米国がこの提案に応じなければ、七三一部隊の幹部を公開裁判にかけて事実を世界中に暴露する、と迫りました。しかしマッカーサーのGHQは米本国政府と協議した上で、ソ連の引き渡し要求を退ける一方、キャンプ・デトリックから再び調査官を迎えて内藤や石井を再尋問します。その過程で《細菌兵器の研究成果を全面的に米国に提供すれば、石井らを戦犯には問わない》という取引が、米本国政府の承認の下に確定します。調査官として来日したノーバート・フェル博士と、フェルの後を継いだエドウィン・ヒル、ジョゼフ・ヴィクターの両博士は、人体実験に基づく細菌兵器の研究資料や、生体解剖によって得られた大量の標本などを、米国に持ち帰りました。
こうして、ニュルンベルク裁判ではナチスの医師たちを裁いた米国が、石井機関の細菌兵器開発や人体実験による大量殺人に関しては、下手人たちと共犯関係を結ぶことになったのです。石井や内藤をはじめとして、石井機関の中枢を担った軍医や、七三一部隊に派遣され「マルタ」を虐殺していた研究者たちの多くは、戦後まったく罪を問われることなく、大学などの研究機関や企業の要職に着きました(内藤は自分の専門の凍結乾燥技術を生かして乾燥血漿を製造する「日本ブラッド・バンク」【後に「ミドリ十字」と改称】を設立します。内藤も含め、創立当初の役員の半数は石井機関の関係者でした)。そして石井機関に全面的に協力した医学界も、その過去を隠蔽することに成功したのでした。
(2) ハバロフスク裁判
【詳細は『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』;三友一男『細菌戦の罪』、を参照】
米国との取引に失敗し、東京に出向いて石井らの尋問を行ってもまったく成果が得られなかったソ連は、捕虜にしていた関東軍や七三一部隊・一〇〇部隊などの関係者を、公開の軍事法廷で裁きました。この公判は1949年12月25日から30日にかけて沿海州のハバロフスク市で行われたので「ハバロフスク裁判」と通称されています。被告になったのは以下の12人でした。
山田乙三(関東軍司令官、大将)
梶塚隆二(関東軍軍医部長、軍医中将)
高橋隆篤(関東軍獣医部長、獣医中将)
川島清(七三一部隊第四部[製造部]長、軍医少将)
柄沢十三夫(七三一部隊第四部課長、軍医少佐)
西俊英(七三一部隊孫呉支部長[後に教育部長]、軍医中佐)
尾上正男(七三一部隊牡丹江支部長、軍医少佐)
佐藤俊二(第5軍軍医部長、軍医少将)
平桜全作(一〇〇部隊研究員、獣医中尉)
三友一男(一〇〇部隊員、軍曹)
菊池則光(七三一部隊牡丹江支部衛生兵、上等兵)
久留島祐司(七三一部隊林口支部衛生兵・実験手)
彼らの罪状は「ソ連最高ソヴィエト常任委員会法令第一条違反」で、細菌戦部隊の業務統轄・細菌戦の準備および細菌兵器製造・侵略戦争の開始など「日本帝国主義への積極的参加」の廉で山田・梶塚・高橋・佐藤が、人体実験を容認した廉で山田・梶塚・高橋が、「波」部隊(広東の南支那派遣軍防疫給水部)と「栄」部隊(南京の中支那派遣軍防疫給水部)での細菌兵器製造を統轄した廉で佐藤が、細菌兵器の研究と製造に参加した廉で川島・柄沢・西・尾上・平桜が、中国に対する細菌戦の遂行と人体実験の遂行に参加した廉で川島・柄沢が、ソ連に対する細菌謀略に参加した廉で平桜が、細菌戦部隊の業務に参加した廉で三友・菊池・久留島が、人体実験とソ連に対する細菌謀略に参加した廉で三友が、それぞれ有罪とされました。
刑はいずれも収容所での矯正労働で、刑期は山田・梶塚・高橋・川島が25年、柄沢が20年、西が18年、尾上が12年、佐藤が20年、平桜が10年、三友が15年、菊池が2年、久留島が3年でした。彼らはモスクワから250kmほど東のイワノボ将官収容所に入れられましたが、刑期が長かった者も、1956年の日ソ国交回復に伴い(病死した高橋と自殺した柄沢を除いて)全員帰国しています。
ソ連はこのハバロフスク裁判を、ニュルンベルク裁判や東京裁判に匹敵するものとして世界中に印象づけようとしましたが、ソ連一国だけで行わざるを得ず、裁判団も検事も弁護人もすべてソ連人で、ソ連以外の報道機関による現地取材もなかったので、すでに始まっていた東西冷戦のさなか、ソ連の宣伝工作にすぎないとして西側各国からはほとんど黙殺されてしまいました。裁判の中身も、たとえば弁護人は日本帝国主義と財閥支配を非難して被告の情状酌量を求めるのみで具体的事実に関してはまったく争わず、被告たちもいっさい反論せず懺悔するばかり、という一方的な内容でした。しかしながら、法廷に提出された証拠や、被告や証人の供述調書は、七三一部隊や一〇〇部隊の実態を示すまとまった資料として、なお一級の価値を保っています。
ただし、ハバロフスク裁判の被告には、石井機関の全貌を知る中枢の幹部は含まれていませんでした。石井機関の全体像を把握していたのは、石井や内藤など、陸軍軍医学校防疫研究室の業務に携わっていたごく一部の幹部だけで、七三一部隊など現場の幹部は自分の関係した業務のこと以外はほとんど知らなかったのです。このことが、石井機関の全貌と医学界の組織的関与を、戦犯を追及したソ連の目からも隠すことを可能にしたのでした。
(3) 中国による取り調べと戦犯裁判
【詳細は、中央档案館ほか編『生体解剖』『人体実験』『細菌作戦』;吉開那津子『消せない記憶』、を参照】
日本軍の侵略によって最も大きな直接的被害を被った中国では、日本の降伏によって戦争が終わった後、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党の間で内戦が再発します。そのため、日本軍の戦犯の追及は、共産党軍が国民党軍を打ち破って1949年に中華人民共和国が樹立されるまで、実質的に棚上げにせざるを得ませんでした。その間に、中国で残虐な行為を行った日本人の多くが帰国してしまい、戦犯容疑者として捕らえられたのは、ソ連から引き渡された969人を除けば、山西省に残っていた140人だけでした。
中国の戦犯取り調べはきわめてユニークなものでした。戦犯容疑者として捕らえられた日本人たちは、収容所に入れられたものの、強制的に働かされるわけでもなく、しかも中国人看守より豪華な食事すら与えられました。その一方で、軍国主義の本質と構造を学び戦時中に行ったことを反省する機会が与えられ、自発的に戦争犯罪を供述するように導かれていきました。もちろん、すでに被害者の家族などからの告発や証言は多数寄せられていたので、供述がそれらの告発や証言と一致するまで、粘り強い尋問が止むことはありませんでした。
このようにして得られた供述に基づいて、1956年の6月から7月にかけて、瀋陽と太原で「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」が開かれました。実際に裁判にかけられたのは、拘留中に死亡した47名、起訴猶予にして帰国させた1017名を除いた、45名のみです。この中に含まれていた石井機関の幹部は、七三一部隊林口支部長だった榊原秀夫だけでした。医学関係者の被告として他には、各地の陸軍病院で「手術演習」を行った軍医などが含まれていました。
判決もまた、きわめてゆるやかなものでした。処刑されたのは1人もなく、有罪を宣告されても刑期満了前に釈放されました。こうして全員が1964年までに帰国しました。
このように寛大な戦犯裁判の背景には、当時国際社会への復帰を急いでいた中華人民共和国政府の意向がありました。こうして、最大の被害者であった中国の追及をも悪運強く逃れることができ、日本の医学界は安心して、残虐な非人道的犯罪の実行者を要職に据え続けたのです。しかしそれは、自らの犯した行為を正面から見つめ直し、二度とこのようなことはすまいと国内外に宣言するよう迫られる絶好の機会を、日本の医学界が決定的に逃してしまったということでもあります。
6. ナチスの人体実験との共通点と相違点
最後に、前回の講義で扱ったナチス・ドイツによる人体実験と、日本軍による人体実験(および生体解剖による殺害)の共通点と相違点を、簡単にまとめておきます。
まず第一の共通点は、双方とも、被験者に治療的効果などのメリットがありえない「非治療的実験」であったということです。この点は、次回に述べる米国の放射能実験も同様です。治療的実験をめぐる倫理的考察を行う際には、医師・患者関係や治療可能性に伴うさらに複雑な事情を考慮に入れる必要があります。もっとも、ナチスや日本軍による人体実験への反省から、人体実験に関する最低限の倫理が抽出されてくることは確かですが。
第二の共通点は、どちらも「どうせ殺される者」を用いた実験であるということです。ナチスの場合、それは絶滅収容所で抹殺される運命にあるユダヤ人やスラブ人やロマの人々などでした。日本軍の場合は、スパイやレジスタンスおよびその協力者と疑われた中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などでした。そして、いずれの場合も「どうせ殺される者」と決めるにあたって、人種差別や民族差別や思想差別が大きな役割を果たしていました。
第三の共通点は、ドイツの場合も日本の場合も、軍事上の目的のために実験が行われた、ということです。もっとも、ドイツの場合は「断種実験」や「安楽死」や「ユダヤ人骨標本コレクション」のように、優生学や人種衛生学[民族衛生学]の研究のために行われたものや、「骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験」のように目的のはっきりしない実験もありましたが、その他の実験は、曲がりなりにもいちおう軍事上の目的が設定されていました。日本軍の場合は国家的プロジェクトとして、細菌兵器の開発という明確な軍事目的をもっていました。次回に取り扱う米国の放射能実験も、米国の安全保障上の目的を持っていたために、長く隠蔽されてきました。このように、国を守るという口実があれば非常に残虐な人体実験も行われうる、という点は押さえておく必要があります。
(もっとも、そもそもこの口実は、戦争という最も甚だしい残虐行為すら正当化してしまう口実なのですが、「国を守るため」であってもしてはいけないことがあるのか、あるとすればその根拠は何か、という問題は、さらに考える必要があります)
一方、相違点の第一は、ナチスの人体実験の舞台は絶滅収容所であり、その機構と施設の本来の目的は「抹殺」することであって人体実験をすることではなかったのに対し、日本軍とりわけ石井機関の機構と施設ははじめから人体実験を行うことを目的に作られていた、という点です。その典型が平房の七三一部隊で、これは人間を使って実験を行い殺すことを徹頭徹尾念頭に置いて設計された施設と人員配置をもっていました。それに比べると、ナチスの人体実験はずっと思いつき的に行われています。
これほど科学的で、大規模で、冷酷な人体実験機関は、歴史上ほかに存在しません。しかも石井機関は莫大な経費によって支えられた国家的プロジェクトであり、人体実験にここまで国家予算をつぎ込んだ国は日本以外にはなかったでしょう。そして、人体実験や生体解剖による殺害にこれほどの規模で組織的に協力した医療専門職集団も、日本の医学界以外にはないのです。その意味で、日本軍の人体実験は、その規模と組織性と計画性において、ナチスの人体実験をはるかに上回ると断言できます。
第二の相違点は、医学界の組織的関与の度合にあります。石井機関には、石井四郎の強力なリーダーシップの下に、医学界の有力者がネットワーキングされていました。これに対してナチスの人体実験の場合は、ナチスに入党した医師の割合は高かったものの、その関与は個人単位のものだったようです。悪名高きアウシュヴィッツの医師メンゲレも、師であるフォン=フェルシュアー教授に命じられてアウシュヴィッツへ行ったわけではありません。この点で、正路倫之助に七三一部隊行きを厳命された吉村寿人の場合とは異なっています。また、ナチスの場合には、ユダヤ人医師や社会主義者の医師など抵抗運動を続ける医師たちがいたのに対し、日本の医師の間に軍や石井機関に抵抗する動きはとくにありませんでした。このように、医学界の組織的関与の度合はナチスよりも日本の方が高かったといえます。にもかかわらず、いや、それだからこそ、ドイツの医師会が「『人間の価値』展」を開催したのに対し、日本の医師会は「七三一部隊展」の際にもいっさい沈黙を守っていたのでしょう。
第三の相違点は、生き残った被験者がナチスの人体実験では相当数いるのに対し、日本軍の人体実験では1人もいない、という点です。生体解剖されればもちろん生き残ることはできませんでしたし、生体解剖されなかったとしても実験後に毒物を投与されたりして殺されました。また、七三一部隊では「マルタ」をまず感染実験に使い、もしそれで生き長らえたら次に凍傷実験に使い、それで四肢を失ってもなお生き残った被験者は毒ガス実験などに使って殺したといわれています。しかも、ソ連軍の侵攻により撤退するときには、証拠隠滅のためにすべての「マルタ」が「処分」されたのです。こうした被験者の徹底的な「利用」ぶりもまた、はじめから人体実験に使って殺す目的で組織された石井機関と、思いつき的なナチスの人体実験との違いを際立たせています。
第四の相違点は、ナチスは絶滅収容所に入れられていた囚人をいわば場当たり的にピックアップして被験者としたのに対し、石井機関では憲兵隊や特務機関との連携のもとに「特移扱」という被験者調達システムが整えられていた、という点です。これもまた日本軍の人体実験の組織性と計画性を物語っています。このような連携は関東軍や陸軍首脳部の承認がなければ成り立ちませんので、「特移扱」は石井機関が国家ぐるみのプロジェクトであることをはっきり示すものであり、その責任はおそらく日本軍の最高責任者であった天皇にまで及ばざるをえないことを示唆しています。
第五に、日本軍とくに石井機関の、証拠隠滅と箝口令の徹底ぶりが挙げられます。ナチスの場合、人体実験の証拠隠滅はそれほど組織的なものではなかったため、多くの証拠を後に残すことになりました。ニュルンベルク裁判の訴追資料は、ナチスの医学犯罪の全体像を描き出しています。これに対し、石井機関では証拠隠滅が徹底的に行われました。そのため、ソ連の努力にもかかわらず東京裁判で表沙汰にすることは不可能でしたし、ハバロフスク裁判や中国の戦犯裁判でも、石井機関の全体像は明らかにできませんでした。
また、石井四郎は帰国する部隊員を「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすようなことがあったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と恫喝し、
一、郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
二、あらゆる公職には就かぬこと。
三、隊員相互の連絡は厳禁する。
と厳命したといいます【越定男『日の丸は紅い泪に』p.173】。この厳命は戦後長く旧部隊員(なかでも下級隊員)を拘束し続けます。彼らがこの秘匿命令に逆らってようやく重い口を開き始めたのは、それから35年あまり経った1980年代に入ってからでした。こうした徹底ぶりもまた、石井機関の組織性の高さを表すものです。
第六の相違点は、ナチスの人体実験はニュルンベルク裁判で厳しく追及されたのに対し、日本軍の人体実験および生体解剖による大量殺害の場合は、石井四郎を筆頭ととする実行責任者がほとんど戦犯に問われなかった、という決定的な違いです。これは第一義的には正義よりも自国の利益を優先させた米国のせいですが、暴露されればまちがいなく窮地に陥るような行動をあえて米国がとったのは、思いつき的なナチスの人体実験が独占に値する成果をほとんど含んでいなかったのに対し、石井機関の人体実験は(秘密が保たれたことも含め)それだけ独占に値する成果を上げていたからだともいえます。もちろん、最大の被害国である中国が内戦状態に陥ったこと、ソ連が石井機関の主要な幹部の身柄を拘束できなかったこと、米国は石井らの身柄は押さえたものの現地での捜査を行えなかったこと、そして東西の冷戦が米中ソ3国の捜査協力をまったく不可能にしてしまったこと、など、石井たちにとって都合のよい歴史的偶然が重なったことが、戦犯免責を可能にしたのですが。
そして最後に第七の相違点は、戦後における国内での追及と反省の仕方の違いです。旧西ドイツでも、ナチスに荷担した医学者の多くはそのまま要職に留まったため、医学界自身の反省の動きは1980年代まではほとんどありませんでした。しかしドイツでは何といってもニュルンベルク裁判が行われて人体実験の事実が国際社会に公表されていましたし、ユダヤ人団体などによるナチス犯罪人の告発も続けられていましたし、ナチス時代に国を追われた社会主義者の医師たちは国外から告発活動をしていましたので、こうしたことがいっさいなかった日本と事情は大きく異なります。しかも1980年代に入ると「『人間の価値』展」に象徴されるように、医学界自身の手による反省も行われています。
日本でも1980年代以降、石井機関の下級隊員や、湯浅謙ら陸軍病院に務めていた元軍医たちが、ようやく重い口を開いて公の場で証言を始めたこと、中国や米国・ロシアの資料が以前よりも手に入りやすくなったこと、国内でも新しい資料がいくつか発掘されたこと、などによって、研究は大きく進展してきました。しかし日本政府は、七三一部隊の存在だけは認めているものの、人体実験が行われていたことは未だに認めていませんし、まして謝罪などまったく行っていません。日本の医学界も、この問題に関しては固く口を閉ざしたままです。これは、単にドイツと日本の「相違点」といってすますには、あまりにも大きな相違です。
●テキスト
常石敬一『七三一部隊----生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書、1995年、¥631
比較的新しい研究成果も取り入れた、歴史学的に堅実な、一般向けの解説書です。
●参考図書
常石敬一『医学者たちの組織犯罪----関東軍第七三一部隊』朝日新聞社、1994年、¥1000(朝日文庫、1999年、¥660)
米軍との免責取引や、医学界の組織的関与の全体像を詳細に描いています。
森村誠一『新版・悪魔の飽食』角川文庫、1983年、¥520
下級隊員の証言を掘り起こし、ミリオンセラーになった本です。七三一部隊施設の全容も明らかにしました。『続・悪魔の飽食』の初版で使った写真の一部が七三一部隊とは無関係だったという「写真誤用事件」を起こし、右翼からの総攻撃を受けましたが、一般市民の関心を呼び、その後も隊員の証言を広く引き出すきっかけを作った功績は大きいです。一度は目を通しておくべき本でしょう。
森村誠一『新版・続・悪魔の飽食』角川文庫、1983年、¥430
森村誠一『悪魔の飽食・第三部』角川文庫、1985年、¥500
下里正樹『「悪魔」と「人」の間----「731部隊」取材紀行』日本機関誌出版センター、1985年、¥950
『悪魔の飽食』の続編にあたる文献です。下里氏は森村氏の「共同作業者」として、元隊員などの取材を行った記者です。
太田昌克『731免責の系譜----細菌戦部隊と秘蔵のファイル』日本評論社、1999年、¥1800
新資料に基づき、戦犯免責と石井機関の全体像の秘匿をめぐる日米の駆け引きを検証した本です。
『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』モスクワ・外国語図書出版所、1950年(『細菌戦部隊ハバロフスク裁判』牛島秀彦解説、海燕書房、1982年、¥7500;『公判記録・七三一細菌戦部隊』高杉晋吾解題、不二出版、1993年再刊、¥7500)
ソ連によるハバロフスク裁判の公判書類です。まとまった資料として、今なお一級の価値を持っています。
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『生体解剖----旧日本軍の戦争犯罪』同文舘、1991年、¥2000
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『人体実験----七三一部隊とその周辺』同文舘、1991年、¥2800
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『細菌作戦----BC兵器の原点』同文舘、1992年、¥3300
中国における戦犯裁判の公判準備書類です。戦犯とされた人々の証言(供述調書)が中心です。
越定男『日の丸は赤い泪に----第七三一部隊員告白記』教育資料出版会、1983年、¥1200
吉開那津子『消せない記憶----湯浅軍医生体解剖の記録』日中出版、1981年、¥1300
郡司陽子『証言・七三一部隊』徳間書店、1982年、¥680
三友一男『細菌戦の罪----イワノボ将官収容所虜囚記』泰流社、1987年、¥1400
秋元寿恵夫『医の倫理を問う----第七三一部隊での体験から』勁草書房、1983年、¥1800
七三一部隊・一〇〇部隊の元隊員や陸軍病院に勤めた元軍医による告白記です。
本多勝一『中国の旅』朝日新聞社、1972年(朝日文庫、1981年、¥410)
七三一部隊の部隊長を務めた北野政次などが満州医科大学で中国人を用いて人体実験や生体解剖を行っていたことが明らかにされています(pp.57-86「人間の細菌実験と生体解剖」)。南京大虐殺や平頂山事件など著名な事件以外にも、中国人を虐殺することが日常茶飯事だったことが、現地取材に基づいて綴られています。取材は1971年に行われ、当時の文化大革命に無批判なのが今から見れば気になりますが、この点を割り引いても、ぜひ一読しておくべき本です。
●練習問題
(1) 日本軍の医学犯罪がなぜ行われ得たのかという点に関する筆者の分析を批判的に検討しましょう。筆者が挙げている四つの理由(戦争という時代状況、人種差別・民族差別・思想差別、「どのみち殺される」者の「利用」、密室状況)は、説明理由として十分といえるでしょうか?他に考慮すべき理由はないでしょうか?
(2) 医学者たちが石井機関に加わった理由に関する筆者の分析を批判的に検討しましょう。筆者が挙げている三つの理由(時代状況、医局講座制と防疫研究室嘱託制度、ほかでは得られない研究環境)は、説明理由として十分でしょうか?他に考慮すべき理由はないでしょうか?
(3) ナチスの医学犯罪と日本の医学犯罪の筆者による比較分析を批判的に検討しましょう。筆者の挙げている共通点三つ、相違点七つは、十分に両者の共通点と相違点を尽くしているでしょうか?他に考慮すべき点はないでしょうか?
(4) 米国が「二枚舌」と国際社会から非難される危険を冒してまで、石井機関の人体実験データを独占しようとした理由を考えてみましょう。また、国際社会においてニュルンベルク・コードはどのような意義をもっていると考えますか?
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