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加藤秀俊 著作データベース
都市のマオリ
発行年月: 19821020
掲載 : 季刊民族学
発行元 : (財)民族学振興会千里事務局
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南半球の高緯度にある島
ポリネシアの人びとのなかで、ニュージーランドのマオリ族は、きわめて特異な存在である。まず第一に、かれらの住んでいるニュージーランドは、たしかに島にはちがいなけれども、南北ふたつの島をあわせた面積は日本列島よりも大きい。他のポリネシアの人びとが住んでいるのは、地図のうえではケシ粒ほどにもならない小さな島じまである。ちょっと風雨が強ければ、一時的に島ぜんたいが海面の下にもぐってしまうような環礁さえある。そういう小さな島じまからみれば、ニュージーランドは「大陸」とよんでもさしつかえない。
じっさい、小さな島嶼社会は、その地理的・資源的理由から、人口におのずから限界がある。サモアなどのばあい、その「本国」に住んでいる人たちよりも、ハワイやカリフォルニアに移住している人口のほうがおおい。一般的にいって、島嶼社会は、あまりたくさんの人間を、島内で養うことができないのである。ところが、マオリの住んでいる土地は広大だ。いまのところ、ニュージーランドの総人口は約三〇〇万人。そのおよそ一割がマオリだが、こんご当分のあいだ、いくら人口がふえても心配はない。
第二に、他のポリネシア社会が赤道からせいぜい南北に緯度で二〇度ほどはずれたところに位置する熱帯にあるのと対照的に、ニュージーランドは南半球の高緯度地帯にある。首都ウェリントンを地図上でみると南緯四一度。南北をひっくりかえすと、ちょうど日本でいえば札幌の位置に対応している。ということは、とりもなおさず、ここは熱帯ではなく、夏と冬の気温差のはげしいところだ、ということを意味する。じつのところ、今回わたしがニュージーランドをおとずれたのは三月であったが、昼間の気温が二〇度ていど、夜になると、ぐんと冷えこんでくる。
熱帯の島であるならば、年間をつうじて、バナナもとれるし、タロイモをつくることもできる。しかし、マオリのばあいは、そうはゆかない。日照時間のながい春から夏にかけて作物をつくり、それを貯蔵して寒い冬にそなえる ―― そういう計画性をもった生活がここでは要求された。マオリは、たとえばクムラ(サツマイモ)を地下に貯蔵する技術を身につけたし、また、雑穀を乾燥させてたくわえることも発明した。熱帯の島嶼であれば、ハダカで暮らすこともできるが、ここでは鳥の羽根でマントをつくることも必要になってきた。わたしは、べつだん、ここで単純な環境決定論を展開しようとはおもわないが、とにかく、ポリネシア諸民族のなかで、マオリはもっともきびしい自然条件への適応をせまられたのである。
社会構造も独自の形成をとげた。寒い季節にそなえて、しっかりした住居が必要になったし、また、こうした建設作業やまえにのべたような食糧貯蔵のためには、高度な組織化が不可欠である。大まかにいって、マオリは七つの部族にわけられるが、それぞれの部族社会は酋長を中心にして、みごとな集団を組織した。そればかりではない。いかに土地が広大であっても、食糧問題はときとしてきわめて深刻である。ある部族が他の部族に軍事的攻撃をかけることもあった。だから、マオリの諸部族は戦闘集団として編成され、その居住様式も、ひとことでいえば一種の城郭にちかいものになった。小高い丘のうえに家や倉庫を配置し、まわりに濠を掘ったり、柵をめぐらしたり、さらに、その柵を迷路状に設計して敵襲にそなえた。
もちろん、たとえばトンガ、サモア、ハワイなど、他のポリネシア諸民族もそれぞれに王国を編成したけれども、マオリのそれは、さらに精微な組織性を誇るようになったのである。じっさい、こんにちでも、あとでのべるように、部族の集会所たるマラエは、おおむね柵でかこまれており、部族外の人間は柵のそとから大声でよばわり、そのマラエを守る人びとと儀礼的な問答をしなければ門をくぐらせてもらえないのだ。そして、部族を守護し、かつ、部族外の人間に脅威をあたえるために、それぞれのマラエの内壁やその門には部族の祖霊をかたどった、あの、マオリ特有のこまやかな木彫の神様が刻みこまれているのである。
こうした高度の部族組織にくわえて、もうひとつマオリには重要な特色がある。それは、そのめぐまれた条件によって、外来者たる白人と接触を避けることも可能であった、ということだ。ハワイやサモアは、白人によって「発見」されると同時に、一種の「混住社会」にならざるをえなかった。なにしろ、せまい島なのだから、いったん白人が上陸し、植民活動をはじめるや否や、土着の人間と外来者は、よい意味でもわるい意味でも、物理的に共存を強いられたのである。ところが、マオリのばあい、様子はだいぶちがった。オークランド、ウェリントン、クライストチャーチ、といった海岸沿いの良港を中心に、パケハ(白人)が植民活動をはじめても、マオリは内陸部でパケハから相対的に独立して居住し、生活することが可能だったのだ。
さきほどのべたように、現在、ニュージーランドの人口はぜんぶあわせて三〇〇万人。三〇〇万人、といえば日本の静岡県の人口よりややすくない。それが日本列島を上まわる面積の土地にちらばっているわけだから、その密度がいかに希薄であるかは容易に想像がつくだろう。いまでも、都市部をはなれて、ちょっと山間部にはいると、道路は閑散としており、一時間車を走らせても、一台も対向車におめにかからないことがある。交通渋滞も困るが、逆に、こんなふうに交通量がすくないと、なんとなく淋しい気持ちになる。
ことほどさように、人口密度が希薄だから、パケハと接触したくないばあいには、ひっそりとじぶんの村にひっこんでいればよかった。もとより、植民というのは容赦のない苛酷な性質のものであって、土地所有権はいつのまにやらパケハの手に移ってしまっていることがおおかった。内陸部にひきあげたマオリも、けっして安泰ではなかったのである。しかし、それにもかかわらず、マオリはパケハ文化から物理的、心理的に距離をおいて生きることができた。急速かつ安易な「西欧化」は、ここでは発生しなかったのだ。
ということは、べつな角度からみれば、マオリ文化が外圧にたいして、相対的につよい立場を確保することができた、ということを意味する。ポリネシアオのおおくの島では、いわゆる「伝統文化」は、もっぱら観光資源として保存され、かつ西欧的変形をとげているけれども、マオリの「伝統」は、ほとんどそのままの姿で現在も生きつづけている。じじつ、わたしは、ティアティアワ、というウェリントン近郊の小さな町のマラエでひらかれたマオリの長老会議を見学する機会にめぐまれたのだが、そこでは、ニュージーランド各地からあつまった長老たちが、むかしながらの作法にのっとって、たがいにあいさつを交わし、伝統的マオリ料理の食卓をかこんで夜明けまで語りあう、という風景がみられた。
もとより、これは現代の話であるから、長老たちは洋服を着ているし、食事をするときにはフォークとナイフを使う。いや、だいたい、マラエの外壁だって、むかしは太いシダの幹をならべていたのに、こんにちのそれはコンクリート製だ。だから、あきらかに、マオリの物資文化は現代化している。しかし、その根底にある精神文化や、対人関係の作法はかわっていない。たまたま、わたしは、この長老会議をハワイ土着の友人といっしょに訪ねた。かれは、この一部始終をじっと見守り、とうてい、これはハワイでは信じられないできごとだ、と首を振った。ハワイでも、たしかにカメハメハ学校のように、ハワイ土着の文化を細ぼそと保存しつづけるための施設はある。しかし、ハワイのような「混住社会」では、ハワイの土着文化とアメリカ文化のあいだに距離を置いておくことができない。だいたい、ハワイ語という土着の言語さえ、それを完全にあやつることのできる人はすくなくなってしまった。ハワイにあるのは、圧倒的なアメリカ文化の優越であり、土着の文化は、たとえば、ワイキキのホテルでのハワイアン・ショーのようなかたちで世のなかに知られているにすぎない。
それにくらべると、マオリの長老会議などは、土着文化の健在をしめすものだし、それは威厳にみちている。ハワイがマオリのような立場をとりもどすことは、はたして可能だろうか ―― ハワイの友人は、なんべんもわたしのかたわらでつぶやきつづけるのであった。
都市に流れる若いマオリ
とはいうものの、現代のマオリがその伝統文化を保持しつつ、確信にみちた日々を送っている、とかんがえたらまちがいである。事態はむしろ逆であって、マオリ文化は、ある意味で危機にさらされているのだ。
まず第一に、かつての自給自足的な経済はもはや成り立ちえず、現金経済への依存度が高まってきている。はやいはなし、前記の長老会議にしたところで、むかしは、千里の道を遠しとせず、長老たちは何十日もかかって集会にやってきたのだが、現在では飛行機や自動車を使う。現金がなければどうにもならない。しからば、どうして貨幣を手に入れることができるか。ひとつの方法は、農林漁業という第一次産業に専念することであろう。しかし、土地問題がひとつの障壁になる。ほんらい、ニュージーランドの土地はことごとく、マオリ諸部族の財産であったはずなのだが、まえにもふれたように、いつのまにやらパケハに所有権の移ってしまったところがすくなくない。もとより、タダで強奪された、というわけではなく、パケハ流の契約書にサインをさせられ、なにがしかの現金をもらった ―― つまり、契約によって土地を売ったのだが、かつてのマオリに文字の読める者はすくなかったし、ましてや英語でかかれた難解な文章を理解できた人はめったに存在しなかった。じじつ、マオリ諸部族と、大英帝国とのあいだで締結された有名な「ワイタンギ条約」にしたところで、そのオリジナルに当たってみると、マオリの長老たちのサインのすくなからぬ部分は〇であったり×であったり、要するに文字によって書かれてはいないのである。
白人のがわからいえば、たとえ〇であれ×であれ、それは法的に有効な署名、ということになるだろうが、マオリにしてみれば、多少、ペテンにかけられた、という気がしないでもない。そんなわけで、土地をめぐっての紛争はこれまでなんべんもくりかえされてきた。現在でも紛争継続中のところがある。そして、その結果、かなりの程度まで、文字どおりの「失地回復」がおこなわれた。だが、それで問題が解決したわけではない。かつての所有者が死亡してしまっていたばあい、その遺産の分割は複雑をきわめる。マオリの慣習法では、相続権者は、かなりひろい血縁集団におよんでいるから、土地は細分化され、しかも相続権者は散在している、というたいへんなことになってしまう。
そんなわけで、第一次産業に専念する、といっても、実態は決して容易ではないのだ。さいわいにして、まとまった土地をもち、そこでたとえばウシやヒツジを飼うとしても、ニュージーランドの農業は、あまりうま味のあるしごとではない。酪農をやっても乳価は安いし、綿羊をそだてても原毛の値段は買いたたかれる。ちなみに、ニュージーランドには六〇〇〇万頭の綿羊がいるけれども、化学繊維に押されて、羊毛はいささか過剰生産気味なのである。
話が脇道にそれてしまったが、こんなわけで、第一次産業でどうにかやってゆこう、というのはむずかしい話だ。それでは、いったい、どうしたらよろしいのか。ひとことでいえば、都市に出ることだ。都市に出れば、工場もあるし、建設業や港湾作業などのしごともある。それに、とりわけ若いマオリにしてみれば、都市というのは刺激と歓楽にみちたあこがれの土地である。だから、かれらは、大きな期待と希望に胸をふくらませて都市にやってくる。
しかし、都市社会の現実は、かならずしもかれらの期待にこたえてくれない。だいたい、人口規模が右にみてきたような小さなものであるから、製造業もあまり活発とはいえない。じっさい、これだけ羊毛をつくっているのだから毛織物業など、ふんだんにあるだろう、とわたしなどはかんがえてしまうのだが、そういう思考方法はまちがいである。げんに、わたしは、初秋のウェリントンで、あまりの涼しさにセーターを一枚買い求めたのだが、上等品はことごとく英国製。ニュージーランド製は、けっして粗悪ではないけれども、英国製にくらべるといささか野暮ったい。つまり、ニュージーランドは古典的な意味での植民地、すなわち原料輸出国なのであって、加工業はあんまり発展していないようなのだ。
それにくわえて、いまは、世界的に経済が沈滞期にある。若いマオリが、オークランドやウェリントンで職さがしをしても、いいしごとをみつけることはほとんど絶望的だ。もしもかれらが大学、あるいはそれ以上の高等教育をうけているのであれば、ホワイト・カラーの職業につくことも不可能ではない。専門的技術者なら売手市場だ。だが、一般的にいって、マオリは低所得層にぞくしている。若ものたちは高等教育をうけるチャンスにめぐまれていないのだ。だから、あこがれの都市に出てきても、ありつことのできるのは中途半端で不安定な職業であり、それもながくはつづかない。結局のところ、何万ものマオリの若ものたちは大都市で慢性的な失業者群を形成する。
それだけではない。都市にはさまざまな誘惑がある。村にいたときには、部族的結合のなかに組みこまれていたが、都市での生活は自由だ。そこで、職業にあぶれた若ものたちは非行グループにひきずりこまれる。かっぱらい、置き引き、万引、そして、ときには強盗 ―― 血なまぐさい暴力沙汰も、たまに発生する。オートバイを乗りまわし、落書をする。そうした青少年非行は、いうまでもなく、現代の世界ではどこの都市でも見受けられる風景だけれども、これまで、しっかりとした団結と部族的な誇りをもって生きてきたマオリにとって、これは憂慮すべき重大な問題である。こんなことが、ながいあいだつづいたら、マオリ文化の将来はあぶない。
この問題にさいしょに気がついたのは、マオリの各居住区でマオリの生活にあれこれと心をくばってきた社会福祉官(ウェルフェア・オフィサー)である。かれらは、それぞれの地区の住民から選出され、「マオリ省」という中央の独立官庁に所属する。地域でなにか問題が起きればマオリ省に報告して指示を仰ぎ、また、マオリ省は行政上の決定をおこなうにあたって各地域の社会福祉官の意見を求める。かれらは、こんなふうに各地域に密着しているがゆえに、マオリ社会に起きつつあるさまざまな問題を肌で感じている。そして、ふりかえってみると、これまで、マオリ社会には、あまりたのしい話題はなかった。困った問題や悲しい話があまりにもおおかった。じっさい、「マオリ省」という官庁も、の実態からいうと、「マオリ“問題”省」とよばれるのがふさわしい。とにかく、マオリがなにか「問題」を起したときに「マオリ省」がその処理をする、という、いわば消極的な役割がこのお役所のイメージであった。どうにかして、マオリ「問題」を、よりあかるい未来展望をもったものとしてつくりかえ、積極的にとり組むことはできないものか ―― 社会福祉官たちはかんがえた。ニュージーランドを合計一二の地域にわけて、それぞれの地域のマオリ問題を一手にひきうける地域担当官もおなじ思いにとらわれていた。
これだけ問題が切実になってきた時期に、おどろくべき変化が起きた。一九七六年、マッキンタイヤー氏がマオリ省の大臣になり、プケタプ氏がその次官に任命されたのである。この大臣と次官は、従来まったく想像もつかなかったような方法で「マオリ問題」に取り組みはじめた。かれらは就任と同時に、一二人の地域担当官をウェリントンの本省にあつめ、なにがほんとうに問題であるのかを二四時間以内に、とりまとめて報告せよ、と指示した。こんな大臣や次官は、ながいマオリ省の歴史のなかでひとりもいなかった。担当官たちは当惑した。
当惑したけれども、いまこそ、日ごろかんがえている問題を大声で叫ぶことのできるチャンスである。だからかれらは、住宅問題、教育問題、といったふうに、いくつかの問題領域をしぼりこんで、徹夜の作業をおこなった。みんなひと晩の作業で疲労し切っていたが、とにかく、こんなに真剣に作業をしたことはなかった。指示どおりに、かれらはその報告書を提出した。疲れたろう、一日、ゆっくり休みたまえ、と次官はいった。
一日が終わった。翌朝、一二人はふたたび本省にあつまった。ところがおどろいたことにプケタプ次官は、前日受けとった書類を、全員の見守るなかでビリビリと引き裂いて紙くずカゴに放りこみ、これはまったく意味のない作文である、もういちどやりなおせ、なによりもマオリ族の一員としてものをかんがえよ、と指示して部屋を立ち去った。
「姿勢を正そう」運動
一二人の地域担当官は呆然とした。せっかく書きあげた報告書は紙くずになってしまった。どこが悪かったのだろう。しかし、そうやっておたがいに議論をしているうちに、いつのまにやら、かれらは英語でなくマオリ語で話しはじめていることに気がついた。担当官は、みなマオリである。だから、ほんとうはマオリ語で語りあうほうが自然であったはずだ。それなのに、マオリ省の公務員になって以来、もっぱら英語で生活するようになってしまっていた。この国の公用語が英語である以上、それはしかたのないことであったし、前日に提出した報告書も英語でタイプ打ちしたものであった。だが、よくかんがえてみると、それはマオリの問題をマオリの現実に即してとりまとめたものではなかった。気がつかないうちに、担当官たちは、パケハの思考方法を英語で身につけ、管理者の立場に立ってしまっていたのだ。そしてマオリ語で話しあっていると、英語では表現のできない、こまやかな感情がおたがいに通いはじめていたのである。
そういう議論が白熱しはじめると、担当官のひとりが感きわまった面持ちで立ちあがり、「ツ・タンガタ」と叫んだ。他の言語には翻訳しにくいが、日本語でいえば、「姿勢を正そう」 ―― つまり、みずからの民族文化に誇りをもち、みずからの能力を発揮しよう、といったような意味だ。もうひとりの人物がつづいて「ファカイティ」といった。全力をあげよう、という意味である。第三の担当官は「コタウ・ロウロウ」といった。「みんなのバスケットの食べものをだしあえば全員が満足できる」ということだ。要するに、管理者的発想からではなく、マオリの民衆生活そのものからものごとを根本的に再検討する作業がこのときからはじまったのである。大げさにいえば、これはマオリの歴史のなかでこれまで前例のない文化大革命の出発を意味した。
「ツ・タンガタ」は、基本的スローガンになった。官僚的作文を破り捨てたプケタプ次官は、この二回めの報告に満足し、すべての権限を担当官にゆだねた。そして、「ツ・タンガタ」的発想で見直してみるとこれまでのマオリ行政はまちがいだらけ。各担当官は、従来、快適な事務所で執務していたのだが、それではマオリの現実を把握することはできない、ということに気がついた。かれらは事務所でデスク・ワークをするのでなく、毎日、車で担当区域を走りまわり、直接に民衆の声をきく、という方法を採用するようになった。
なによりも、「ツ・タンガタ」というよびかけにこたえて、自発的に民衆のがわから生まれてきた小さなグループの提案をだいじにする習慣が、マオリ省のなかで支配的になってきた。極端な例がひとつある。ある日、数人のマオリの中年女性がマオリ省にやってきた。彼女たちは、これから減量をしようと思うのだが、それを手つだってもらえるか、というのである。かんがえてみれば、これはふしぎな提案である。肥満体の女性たちがやせたい、というのは当然の希望であろうが、それはあくまでも個人の問題であって、政府省庁の関知するところではないはずだ。しかし、マオリ省は、このグループを援助することにした。たしかに、減量というのは美容の問題でもあろうが、同時に健康の問題であり、それは、ひいては健康な家庭づくりの問題とも関係するだろう。その意味で、このグループの提案は、将来のマオリの生活改善へのひとつのアプローチでありうる。担当官は彼女たちに二〇〇ドルの予算をあたえた。ただしこの二〇〇ドルは、彼女たちが中心になってマオリ社会ぜんたいに減量運動を推進してゆくための、いわばシード・マネーである。これを有効に使って、マオリの女性たちが肥りすぎにならないようにみなで知恵をだしあうように ―― マオリ省は、そういって彼女たちをはげましたのであった。
ある若もののグループがやってきた。中古でいいからトラックを一台提供してくれ、というのである。かれらは、ウェリントンで職さがしをしたが、どうも思うようにならない。グループがトラックで移動すれば、たとえば草刈りとか、土木工事の手つだいとか、小さなしごとをつぎつぎにさがすことができるだろう、だから援助してくれ、というのがかれらの希望であった。マオリ省は、このグループにも予算をつけて、トラック一台を提供した。いわば、これは一種のあらたなるジプシーだけれども、この若ものたちにも、かならず自発性と知恵があるにちがいない。まじめにしごとをすすめれば、ジプシー生活でなく、どこかで定着して将来性のある職業につくことができるかもしれぬ。いや、このグループをモデルにして、若ものたちのあらたな生活スタイルがつくられてゆく可能性も高い。そういう理由から、マオリ省はこのグループを援助することにしたのだ。
こういう、いささか常識はずれの突飛なアイデアをもふくめて、合計五〇〇ほどの自発的な「ツ・タンガタ」グループの活動がニュージーランド全土にわたって展開した。前例のないことだけに、批判もすくなくなかった。たとえば、農村からオークランドに遊びにきて、帰りのガソリン代がなくなった、と担当官のところに泣きついてきた青年たちにガソリン代を支給したという例もある。世論はかなりきびしかった。いやしくも政府が遊興の手つだいをするのはけしからぬ、というわけだ。しかし、担当官はこう答えた。もしガソリン代を払えなければ、かれらはそのままオークランドに居つづけて、望ましからぬグループにはいってしまうかもしれぬ。安全にじぶんの村に戻るほうがかれらにとってもしあわせだし、国のためにもなる。いちどこういう経験をすれば、二度とおなじようなまちがいをおかすことはあるまい。
とにかく、「ツ・タンガタ」は、全面的にマオリの良識を信頼することからはじまっているのである。この五〇〇のグループのほかに、以前から細ぼそとつづいていた三〇〇のグループをあわせて、巨大な草の根のエネルギーが結集されはじめた。そして、この合計八〇〇のグループは地域ごとに結集して「地域社会協議会」をつくった。その作業チームは「コキリ」とよばれる。マオリ省は、全国一二の「コキリ」それぞれに三人の有給の職員を配置し、同時に三台の乗用車を配置した。三台の自動車があれば、最大一五人の人間が同時に移動できる。デスクの上では解決できないような問題も、こういう機動力をもったグループの行動によって解決できることがすくなくない。「ツ・タンガタ」は、きわめて行動的なのである。
じっさい、わたしは、あちこちの「コキリ」を訪問し、あれこれと質問をしたのだが、そのたびにマオリの友人たちは、ことばによってわたしの問いに答えるのではなく、わたしをうながして自動車に乗せ、現地につれていって、現実をもって答えさせる、という方法をとってくれた。わたしのような人間にとっては、こういう方法のほうがどれだけ明快で説得的であるかわからない。わたしは「ツ・タンガタ」運動に深く感動した。
しかし、これだけ機動力をもっているからといって、「コキリ」はただ移動しつづけているだけではない。かつてのマオリがそうであったように、いまでも、マオリには確実な根拠地がある。それは、全国各地に散在するマラエだ。マラエというのは、集会所であると同時に、祖霊の宿る神殿である。もろもろの儀式もマラエでおこなわれるし、それぞれの村の年長者たちは、ここでおしゃべりをしたり、黙想したりして時間をすごす。マラエに戻ったときにこそ、マオリの心には安息がおおずれるのだ。
マオリ省は、このマラエという象徴的な施設をだいじにしよう、という基本的方針のもとに政策を立案している。とりわけ都市的環境のなかにあたらしいマラエをつくることが意識的におこなわれはじめた。元来、マラエというのは、それぞれの部族のものだったし、こんにちもそういう性質のものだが、都市に流入してくるマオリは、さまざまな部族にぞくしている。都市のマラエは、したがって超部族的なマオリ結合の場でなければならない。さらに、これを集会所にしたばあい、村のマラエとちがって、数百人という大規模の人びとを収容する必要がある。わたしはウェリントン市内の波止場のちかくで建設中のタラナキのマラエをみに行ったが、堂々たる大建築だ。わたしは、ふと、日本における「氏神」の変遷をおもった。「氏神」というのは、その定着からして、もともとは特定の血縁集団の神であった。しかし、人口の移動がはげしくなり、都市化がすすむと、「氏神」は血縁集団の神というよりは、地縁集団の神、さらには土地神としての性格をつよくしめすようになってきている。都市型のマラエも、日本の「氏神」とおなじような進化の産物なのであろう。
マオリ文化のルネッサンス
こうしたあたらしいマラエをつくるための労働力は、ことごとくマオリに依存している。前にみたように、都市には、若いマオリの失業者が充満している。マラエ建設事業はこうした若いマオリのための失業救済事業になるし、同時に、マラエをつくるという事実をつうじて、若い世代のマオリは、あらためてかれらの伝統文化を再確認する機会にめぐまれる、ということにもなろう。じっさい、マオリ省はこのマラエ建設をたんなる建設事業としてとらえるのでなく、同時にその教育的効果をも予算に計上しているのだ。そのことは、建築現場に足をはこんでみればすぐにわかる。マラエの内壁は、さまざまな植物の繊維を使って編みあげた薄い材料で仕上げるのがマオリの伝統だ。マオリの若い女性たちは、こまかいデザインを凝らした、この内装用の材料を黙々と編んでいる。さきほどのべたように、マラエの内外は木彫の人物像で飾られなければならぬ。そのしごとは男のしごとだ。マラエ彫刻の権威者が先生になって、ここでは、若い男たちがノミをふるっている。つまり、マオリの若い男女は、ここでかれらの祖先がのこしてくれた伝統工芸を身につけながら、マラエをつくっているのである。
そういう風景をみると、いま、ここではじまっているのは一種のルネッサンスである、という気がしないでもない。パケハの文化浸透によって消え去ろうとしているマオリの伝統文化を、あらたな時代の文脈のなかで復興しよう、というわけだ。そして、それをさらに極限まで押しすすめたのが「コハンガ」の復活である。
「コハンガ」というのは、マオリの部族社会のなかにあった集団的幼児教育のことだ。マオリの伝統文化のなかでは、子どもは、たんに両親にとっての子どもであるにとどまらず、それぞれの部族にとっての子ども、という意味をもっている。だから、幼い子どもたちはひとつの集団をつくり、そのなかでマオリの価値体系をしぜんに身につけるのであった。ところが、核家族化が進行するにつれて、そういう集団的な教育の場はいつのまにやら消えてしまった。その「コハンガ」を復活しよう ―― そういう気運が、いくつかの「コキリ」のなかで生まれてきたのだ。
その第一号として誕生したのが、ウェリントンの北西にあるワイヌイオマタという小さな村の「コハンガ」だ。この村は、ゆるやかな丘陵にかこまれた盆地のなかにあり、たまたま倒産した空家になっていた縫製工場を借りうけ、それを「コハンガ」として使おう、というわけである。ここには、生後九ヶ月から学齢に達するまでの乳幼児が五〇名ほど収容されている。かれらは、マオリ語を話すおとなや老人たちにかこまれて一日をすごす。そうすることによって、かれらは、まちがいなくマオリ語を言語環境として育ち、しぜんにマオリ語を話し、マオリ語でかんがえるようになってゆく。ここでは、いっさい英語は使ってはいけない。もちろん、学校に通うようになれば英語で教育をうけることになるし、家庭でも英語が使われているのがふつうだ。したがって、子どもたちは、強烈な幼児経験としてのマオリ語と、その後に経験する英語と、ふたつの言語を身につけてゆくことになるはずである。
ふたつの言語をあやつれる、ということはふたつのことなった思考方法をとることができる、ということである。そういう言語教育がこれからのマオリには必要だ、とおおくのマオリはかんがえるようになってきた。じじつ、これまでのニュージーランドの言語政策以外の言語を公の場で話すことは、禁止されないにしても、あまりこころよくうけいれられる性質のものではなかった。中年のマオリの人びとの話をきくと、かれらが小・中学校の生徒であったころ、すくなくとも学校でマオリ語を使うことはかたく禁じられていた。休み時間中の他愛ないおしゃべりでさえ英語が強制された。それというのも、学校の教師たちのおおくがパケハであってマオリ語を解さなかったからであり、マオリの子どもたちがマオリ語で会話をしているのをきくと、教師たちはある種の不安感に駆られたものであったらしいのだ。
しかし、「ツ・タンガタ」運動がはじまって以来、当然の理由からマオリ語は大手をふって通用するようになった。ワイヌイオマタではじまった「コハンガ」の復活は、その意味で革命的であった。これにならって、いまニュージーランドのあちこちの「コキリ」は、それぞれの「コハンガ」を設計中である。もしも言語というものがひとつの文化の中核をみなすものであるとするならば、マオリ語は、みごとに復興をとげ、そのことによってマオリ文化は確実によみがえろうとしているのである。は、あきらかにまちがっていたのである。つまり、ついこのあいだまで、この国では英語__
しかし、こうなってくると三〇代から四〇代のマオリはいささか不安である。年長者は、マオリ語を話し、子どもたちもマオリ語を話しはじめているのに、その中間にあっていわばサンドイッチ状の立場におかれている中年世代は、いっこうにマオリ語の訓練をうけていないのである。村にいれば、しぜんとマオリ語を使うこともあたろうけれども、都市に住んでしまうと、生活は一日じゅう英語だ。じぶんの子どもたちが「コハンガ」でマオリ語を学習し、マオリ語で話すようになっているのに、親であるじぶんたちがマオリ語を知らない、というのではたいへんぐあいがわるい。そういう不安にこたえて、いくつかの「コキリ」では、マオリ語を教える成人学級をひらくことにした。そういう学級のひとつをおとずれてみると、マオリの若い主婦たちが、ノートをひろげて、マオリ語を一心に勉強している。そして、いっぽう、「コハンガ」では、老人たちがやさしい眼差しで幼児たちにマオリ語で語りかけている。そして、あちこちのマラエでは、木彫やバスケットづくりのような伝統工芸を若ものたちが学習している。マオリの文化史に、あたらしい転換期がやってきている ―― わたしのような素朴な観察者にもそのことはよくわかった。
しかし、それにしても、わたしの心のなかには、いくつかの疑問と不安がのこる。まず第一に、マオリ文化は本質的に口承によって成り立っている。いくらマオリ語が話せるようになっても、それが話しことばにとどまるかぎり、蓄積効果をもつことはないだろう。げんに、マオリについての研究書はたくさん出版されているが、それは主として英語によるものであって、マオリ語で書かれた文献は皆無にちかいのだ。皮肉なことに、マオリの口承さえも、英訳本でしか手にはいらない。
第二に、マラエの建設から伝統手工芸の学習にいたる一連の「ツ・タンガタ」運動は、たしかに、民衆のがわの自発性によって生まれたものだが、その大部分はマオリ省を中心とした政府の公共投資によってまかなわれている。たとえば、木彫を勉強している若ものは労働省から賃金をうけとり、さらに、こういう職業訓練がおこなわれている。「コキリ」には、訓練生ひとりあたり、週に二〇ドルの研修資金の補助がある。それはすばらしいことにちがいないけれども、ほんらい、自発性が究極的に目ざすものは自立ということであろう。マオリ省をはじめとするニュージーランド政府のマオリ政策は立派だが、長期的には、政府資金からまったく自由な、自立的経済がマオリ社会のなかに形成されてゆく必要があるのではないか。
こうした素朴な質問を投げかけてみると、マオリの友人たちは、たしかにそのとおり、とわたしに同意し、しかし、ものごとをはじめるときには自力だけではできない、「ツ・タンガタ」はいまはじまったばかりだから不備なところもたくさんある、だが一〇年後にもういちど来てごらん、マオリはちゃんと自立しているから、と答えるのであった。かれらの眼は輝いていた。その眼の輝きから、わたしは、マオリの将来はたしかだ、ということを直感的に知ったのである。
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加藤秀俊著作データベース
文書管理番号: 3032
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/3032.html