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(回答先: Re:どこの国でもウリナラマンセーでしょ。それと、北朝鮮を語るにトロツキーとはこれ如何に? 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 11 月 25 日 00:15:54)
誤解を招く表現で申し訳なかったですね。
たとえスターリン派であっても、本質的に西側での革命なしに孤立した一国だけで経済建設をやっていくのは不可能だと薄々感じているかと思います。今の共産圏は平和的な形で成立した国ではありません。30万人が虐殺されるような内戦の修羅場に立った事はない。反革命に共産主義者が皆殺しにされるような状況というのは、今の日本の議論や共産主義黒書の前提にはない。反共主義黒書なるものがあれば、共産主義黒書よりも先に出来た膨大なリストとしてその犯罪を列挙できる。
今の日本では、北朝鮮・中国・韓国も朝鮮人・韓国人・中国人のあり方も超歴史的に語られる。その中で日本の役割は賛美されるだけか、無視されるかであって、北朝鮮に敵対的な対応をしていることは無視される訳です。
ここで特にかつての革命直後のロシアやフランスでも今の日本が北朝鮮にしているような侮蔑的態度を受けたことを見て頂ければ嬉しいのですが。
今の右派は明らかに中韓朝への批判に左派の論理を利用している。歴史的にどの辺りから利用してきたのかというと、結構古いように思う。ロシア革命の最中にすでに現在と同じような事が言われていたのであって、冷戦後の議論がナウい訳でもなんでもない事は明らかとなってきている。
ソヴィエト・ロシアの新経済政策と
世界革命の展望
(コミンテルン第4回大会報告)
トロツキー/訳 志田昇・西島栄
1917年の11月7日以後に形成されたわが国の状態の特殊性全体を思い起こす必要がある。実際、もしわれわれがヨーロッパで革命が勝利した後に社会主義的発展の舞台に登場したならば、わが国のブルジョアジーは肝をつぶし、ブルジョアジーをやっつけることは非常に簡単だったであろう。ロシアのプロレタリアートが権力を奪取したあとで、ブルジョアジーが不穏な動きをすることもできなかったろう。こうした場合、われわれはゆっくりと大規模な企業だけを手中に収め、中小の企業を当分のあいだ私的資本主義の基礎の上に残しておくことができたろう。そのあとで、われわれは組織的および生産的な能力と必要に厳密に合わせて中規模の企業に移っただろう。こうした順序が経済的「合理性」に合致したことは疑いない。しかし不幸にして、事件の政治上の順序は今度もこうした合理性を考慮しなかったのである。そもそも指摘しておかなければならないが、革命はそれ自体、世界がけっして「経済的合理性」によって支配されてはいないことの外的な表現なのである。社会主義革命は、今のところまだ、経済生活の領域に――そしてそれによって社会生活のすべての他の領域に――理性の支配を打ち立てることを課題として持つにすぎない。
略
わが国の戦前の経済は、市場における資本主義の諸力の動きによって確立された内的均衡を持っていた。戦争が起こり、それは経済のさまざまな部門の相互関係に巨大な再編を引き起こした。まるで毒キノコのように、軍需産業企業は一般の産業を犠牲にして成長した。続いて革命と内戦による破壊とひそかなサボタージュが起こった。われわれが受け継いだ遣産はどのようなものであったか? 資本主義のもとで存在し、のちに帝国主義戦争によって歪められ、続いて内戦によって最終的に破壊された諸部門間の均衡のかすかな記憶をとどめているにすぎない経済、これがわれわれの受け継いだ遣産である。いったいいかなる方法で経済発展の道を開くことができたろうか?
社会主義のもとでは、経済は中央集権的に管理されるだろう。したがって、個々の部門間に必要な均衡は、厳密に釣り合いのとれた計画によって達成されるだろう。そして、もちろん、その諸部門には大幅な自治が認められるだろう。しかし、この自治は全国的な統制に、続いて国際的な統制に服するであろう。われわれがいま述べているような経済全体の全面的な掌握、つまり完全な社会主義的計算は、アプリオリに、思弁的に、あるいはお役所式に、つくることはできない。それは、当面の実践上の経済的計算を、現在の物質的な資源や可能性や社会主義社会の新しい必要に、徐々に適応させることからのみ成長することができる。前途には長い道のりがある。
それでは、1917〜18年には、われわれは、いったいどこから始めることができ、また、どこから始めなければならなかったのだろうか? 資本主義の機溝――市場や銀行や取引所――は破壊されていた。内戦は頂点に達しつつあった。若干の経済的権利をブルジョアジーに提供するという意味で、ブルジョアジーと――あるいはその一部とですら――経済的に協定を結ぶことは問題にもなりえなかった。経済管理のためのブルジョア機構は、単に全国的な規模においてばかりではなく、それぞれの個々の企業においても破壊されていた。ここから初歩的で死活にかかわる課題が生じた。すなわち、われわれが受け継いだ混沌たる産業上の遣産から、戦闘に従事している軍隊や労働者階級に最も必要不可欠な生産物を引き出すために、たとえ粗削りなものであっても、臨時の機関をつくりだすという課題が生じたのである。基本的にこれは、言葉の広い意味での経済的課題ではなく、むしろ軍需産業上の課題であった。労働組合の協力を得て、国家は工業企業を物質的に支配し、極端に図体が大きく鈍重な中央集権化された機構をつくりだした。それでも、この機構は、われわれが行動中の軍隊に軍装品や武器弾薬を供給することを可能にした。これらの軍用品は量的には極端に乏しかったけれども、われわれが闘争において敗者ではなく勝者となるには十分であった。
農民から余剰農産物を徴発する政策は、不可避的に農業生産の縮小と低下をもたらした。均等な賃金を支払う政策は、不可避的に労働生産性の低下をもたらした。工業を中央集権化された官僚主義的指導のもとにおく政策は、技術設備と手持ちの労働力を真に中央集権的かつ全面的に利用する可能性をなくしてしまった。しかし、こうした戦時共産主義の政策全体は、解体された経済と使い果たされた資源をともなう包囲された要塞の体制によって、われわれに押しつけられたものである。
諸君は、われわれが、重大な経済的転換なしに、大変動や退却なしに、すなわち多かれ少なかれ上昇する直線にそって戦時共産主義から社会主義へと移行することを期侍していたのかどうかとお尋ねになるかもしれない。たしかに、当時、われわれは実際に、西ヨーロッパの革命がもっと急速なテンポで発展することに確固たる期侍をよせていた。このことは争う余地がない。そして、もしドイツで、フランスで、一般にヨーロッパで、プロレタリアートが1919年に権力を獲得していたならば、われわれの経済発展の全体はまったく違った形をとったことであろう。