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(回答先: Re: いい加減な歴史観なんですねwwww 投稿者 夏水仙 日時 2006 年 11 月 07 日 06:38:18)
ったく、思っていた所で、思っていたように反応するんだからなwwww
手応えが無いというのか、有り過ぎるというのかwww
ま、これは、こちらは言わば啓蒙も兼ねておるので、お前さんだけの積りは元々無いが、それにしても、お前さんを相手にすると、何だか足し算や引き算も満足に出来ない相手に、数学の問題を解いてやるような徒労感が残る。
わざわざ、こちらが、お前さんの次なる反応を見越した上で、もし反論する積りならこの辺りの知識が無いと無理ですぜと、ヒントを与えておいたんだぜ。www
「これは当時の日本も含めた東アジアの情勢を入れなければ分からない」ってね。
豊臣秀吉が何故朝鮮に攻め入ったのか、知ってるかな?
答) 中華皇帝になるため。
即ち、明の支配体制が瓦解し、中華世界においては所謂’中原に鹿を追う’状態だったから。 つまり、日本も含めて東アジア全体が、新たな支配体制への転換期で、旧来の棲み分けとは異なるレジームを志向する動きが出て来、秀吉の割り込みもその一環だった、というわけ。 従って、秀吉の「天下取り」は、文字通り、本来の意味での「天下取り」だったというわけさ。 結局、後金が天下を取り清帝國となるのだが、
ちょうどこれは、戦国時代から豊臣・徳川時代への移り変わりと類比的なので、次の様な比較が成り立つ。
後金と朝鮮の関係は、羽柴秀吉と伊達政宗と同様、同格。
そして清と朝鮮の関係は、豊臣秀吉と伊達政宗と同じく上下。
その境目にあるのが、京の都大路を、自分が磔の刑になる時の十字架を背負って歩いたという、屈辱的な屈服のセレモニィだ。 しかし、だからといって、正宗が服従していたのではなかったことは、ヨーロッパやメキシコなどに使者(天正遣欧使節、支倉常長)を送っていたことでも明らかだろう。 同様に、朝鮮も、その屈辱的な和議以降何十年も、北伐論(清打倒)が隆盛している。 ところが徳川期になって時代が安定してくるとそのような動きはなくなる、同じ様に清の中華体制が安定してくると、朝鮮もその秩序を受け入れるようになったっていうこと。
お前さんのいう「朝鮮国王の王子を清帝国に人質に出す」というのも、この戦国時代から抜けて、新たな支配秩序の確立の頃だ。 そして清のこの「人質策」を取り入れたのが徳川幕府の「参勤交代制度」と言われておる。
勿論、この中華体制と日本の(幕藩)体制とは丸で違っておる。 日本ではその体制のトップ(将軍)もまた、「征夷大将軍」として、天皇に任命される。
そうして、夷敵を武力でもって征圧するという意味を持つこの役割を果たせなくなると、それは天皇に返上しなければならない、つまり権力の正統性の根拠は天皇にある、幕末危機の意味はここあるのだ。 中華皇帝とは、この天皇の役割も併せ持つ。
従って、中華世界に属するということは、その中心(頂点)にいる皇帝の権威を受け入れる、ということでもあるのだ。 ここに、後金と確立した清帝國との決定的な違いがある。 お前さんの思い込んでる迎恩門と守礼門との違いは、実は中華体制の混乱期と安定期の違いであり、安定期に入れば同じ、ということだwww
これは、今の時代に直すと、日本にとっては明に当たるのが英国で、清に当たるのが米国と考えれば、そのメンタリティは解るであろう。
米国と戦って敗北し、屈辱的な条件(無条件降伏)で和議を結んだ。 ところが今では、その相手のアメリカと繋がることが文明と繋がることであり、殆どの者が喜んでそれを受け入れてるではないか! 土下座外交の原点であり、そのシンボリックな人物であるペリー、その顕彰碑が浦賀にある。 屈辱というより、文明世界に導き入れてくれた恩人(?)ということだろう。 つまり、そういったメンタリティは昔も今も、朝鮮も日本も変わらないというわけだ。