投稿者 white 日時 2006 年 11 月 06 日 22:20:47: QYBiAyr6jr5Ac
□金正日操る5人の男 [AERA]
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061106-02-0101.html
2006年11月6日
金正日操る5人の男
追加核実験のキーマン。復活した「親中派」側近。そして――。
人事、軍、外交を仕切る、金正日総書記の取り巻きたちの素顔に迫る。
「朝鮮労働党総書記であられ、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長であられ、朝鮮人民軍最高司令官であられるわが党とわれわれ人民の偉大な領導者、金正日同志におかれては、『打倒帝国主義同盟』結成80周年にあたり、人民軍将兵たちと朝鮮人民軍協奏団の祝賀公演をご覧になった」
朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」は、10月18日付第1面の半分を割いて「将軍様」登場を報じた。
記事に公演の場所や日時の記述はないが、北朝鮮は故金日成主席が「打倒帝国主義同盟」を1926年10月17日(なんと14歳!)に結成して「そこから朝鮮革命が始まった」と宣伝しているので、公演は17日に開かれたと考えられる。
この記事が出た18日は、北朝鮮の核実験強行を受けて中国の唐家●(作字、王へんに旋)国務委員が金総書記との会談のため平壌入りした日にあたる。実はこの記事、北朝鮮側が唐氏ら中国の外交幹部たちにあえて見せるために特大の大きさで掲載した、と勘ぐれないこともないのだ。
というのも、金総書記と公演を見た党・軍の幹部8人の中に「張成沢」の名前があるからだ。
逆コース突き進む
張氏は金総書記の唯一の妹、金敬姫党軽工業部長の夫で、総書記の側近としてかつて絶大な権力を振るった。しかし2003年に突如、姿を消す。「甚だしい分派活動をしたと批判され、革命化教育を受けている」といわれた。
今年1月、国防委員会主催の宴会に張氏が出席したと北朝鮮メディアが報じ、復活が確認された。金総書記が1月に中国の経済特区を視察したのを受け、張氏は3月、同じ場所を回った。彼が本格的な経済改革の司令塔となるのではないかとみられた。
ところが、経済改革どころか北朝鮮は7月にミサイル連射、10月には核実験と「逆コース」を突き進む。張氏は9月末、乗っていたベンツが軍用車に追突され、負傷したという話が流れた。関係筋は事故の事実を肯定する。中国式の経済改革に反発する強硬勢力が事故を仕掛けたのではないかとの見方が広がった。
その張氏が紙面で「登場」。
「もともと張氏は日本の財界人とも関係があり、経済使節団を率いて韓国を訪れるなど『資本主義社会のカネの儲け方』を知っている。北朝鮮の改革開放を期待する中国も彼の台頭を望んでいる。核実験で中国の援助が途絶えるのは北朝鮮には致命傷。で、核実験に怒る中国を意識した金総書記の指示で、張氏を紙面で持ち上げてみせたと考えられる」(情報筋)
彼の運命が、北朝鮮の今後を占うカギの一つとはいえそうだ。
北朝鮮のゲッベルス
金正日政権の宣伝扇動の元締めが労働新聞元主筆で「北朝鮮のゲッベルス」金己男書記。兄は長らく外相を務めて北朝鮮の対外的な顔でもある金永南最高人民会議常任委員長ともいわれる。
70年代末、まだ後継者だった金正日氏に取り立てられ、新聞記者から党の宣伝扇動部門の幹部に出世した。金総書記が開く酒飲みパーティーの常連。スローガンだらけの北朝鮮だが、「我々のやり方で生きていこう」「生産も学習も生活も抗日遊撃隊方式に」など有名どころは彼の作といわれる。
「映画、音楽など宣伝部門が大好きな金総書記はスローガンに関心が高い。どのスローガンが使われるかは金総書記の判断で決まるというのは常識だ」(在日関係者)
金総書記の名前で発表された「労作」や祝賀文も、彼の手を経ているというのが定説だ。
情報筋によると、03年に金容淳書記が死去してからは、対南(韓国)工作事業も彼が金総書記から直接指示を受け、実行している。去年8月には「南北和解事業」の一環で韓国を訪れ、ソウルの国立墓地で頭を垂れた。
核実験強行で経済制裁の動きが世界的に広まる中、対北融和政策を進めてきた頼みの韓国が制裁同調への揺れを見せると、北朝鮮メディアは一斉に、
「同族への制裁は敵対行為とみなし相応の措置を取る」
とすごんで見せた。北朝鮮が何度となく使うこのフレーズも彼の作品かもしれない。
細面で温和な印象の金己男書記とは対照的に、眼光鋭く「海坊主」のような異形の側近が、李容哲党組織指導部第1副部長。冒頭に紹介した「労働新聞」記事によると、朝鮮人民軍協奏団の公演にはこの2人も出席している。
党中央軍事委員でもある李氏の任務は、関係筋によると、「軍部の要望を受けると同時に軍の動向を監視し、金総書記に報告する。総書記の意向を軍に行き渡らせる」ことにある。総書記の現地指導や軍視察に同行する機会も多い。軍の反乱は体制崩壊につながり得るだけに「政権の命運を握るポスト」(同)といえるだろう。
韓国側資料によると、李氏は80年代初めに人民武力部の要職に就任。86年にはテロ工作を専門とした党調査部長の地位に就いた。94年に党の要である組織指導部第1副部長となっている。
いつも横に座る男
「独裁者・金正日」の批准なくして北朝鮮の主要業務は何一つ動かない。部下が自己過信から暴走すれば自身の破滅を招きかねない。しかし、「余人を持って代え難い」部下もいる。核問題で強行一本やりの路線を主導する姜錫柱第1外務次官がそれだ。小泉前首相、金大中韓国前大統領、そして唐家国務委員と、金総書記が外国首脳との会談に臨む際、いつも総書記の横に座るあの男だ。
兄が生前、「金体制の歴史的正当性を理屈づける重要ポスト」の党歴史研究所所長を務めていたことから、北朝鮮での「成分」(階級)は良いと思われる。大学卒業から一貫して外交畑を歩み、86年に現在の第1外務次官に就任。約20年間このポストに留まり、90年代初めの第1次核危機では米クリントン政権と渡り合った。
「核開発凍結の見返りに、軽水炉2基と年間重油50万トンの支援という大勝利を勝ち取ったのが彼。調印を終えてジュネーブから平壌に帰国した際、金総書記の指示で赤いカーペットを敷いて讃えられた」(政府関係者)
金総書記が命じた目標実現のため、ギリギリまで相手との緊張を高める姜氏の強面手法だが、核実験という危険水域を越えた今、そのやり口がまたも通用するか。
その姜氏だが、92年の一時期、「党と事前協議をせず勝手に突っ走った」と党内で批判され、地方の協同農場に送られたという。いわゆる「革命化教育」を受けた。
ソウルの関係筋は言う。
「総書記の側近でも、たいていの人間は革命化教育を受けたとみられる。党学校に軟禁され、自己批判を繰り返すのはまだいい方。地方の農場や炭鉱に送られたり、『山行き』と呼ばれる収容所送りにされることもある。部下に試練を与え、金総書記への絶対的忠誠を養う。トップは1人いればいい。派閥があってはいけないのだ」
「山行き」はもちろん、党人事全般に睨みを利かせる男こそ金総書記の最側近、金国泰書記だ。
党宣伝扇動部長だった70年代初め、副部長の金正日氏と深い関係を結び「金正日後継体制」確立に貢献したといわれる。85年に人事担当の党幹部部長となり、92年に人事担当書記となった。党員に金王朝への忠誠をたたき込む党高級学校校長も兼ねている。
父親は、北朝鮮建国初期の大物幹部で、朝鮮戦争で戦死した金策元副首相。故金日成氏が回顧録で2人の「特別な関係」を細かに書き記している。息子である金国泰氏は金日成氏の長男、正日氏とは子供の頃から知る間柄だ。
「以前、心臓病を患い、米国で入院治療を受けた。最近はあまり総書記に随行する報道がない。病気ではないか」との見方がある。
幹部たちに絶対の忠誠を求める金総書記。だが一方で、南北対話などで同席した韓国側に北朝鮮の幹部が内密に、
「南が崩れるなら、あなたを助ける。でも北が崩れるようなら我々を助けてほしい」
と懇願した、との話もある。
金総書記と幼なじみで、軍に強い影響力を持つ呉克烈党作戦部長の息子である軍幹部が北朝鮮から姿を消したとの情報をアエラは04年11月に報じた。その息子は米情報機関の手引きで米国に亡命したともいわれる。総書記の亡き妻の妹夫婦も秘密裏に米国に亡命したという。総書記の巨額の個人資金があるとされるスイスの政府が26日から北朝鮮の金融資産を凍結すると発表した。
金総書記は夜、眠れるか。
編集部 小北清人
次へ 前へ
▲このページのTOPへ
HOME > アジア6掲示板
フォローアップ: