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(回答先: Re: Re:違うのではないか。日本には秘密警察も収容所もないだろう? 投稿者 漁り怒 日時 2006 年 10 月 29 日 18:15:45)
鳩中事件
↓のサイトを見る限りでは、この事件でお手伝いさんは政府に殺されたように見える。寄ってたかって一人の人間を追い詰めていったように見える。イスラム原理主義者と何が違うというのか!
殺さなくたっていいじゃないか。政府が見殺しにしたようなものだ。政府が言論の自由を踏みにじった。強大な暴力が結集して一つの出版社を暴力でぶっ潰そうとした。
言論タブーはイスラム教の国だけではない。日本で天皇を冒涜することは死に値する。日本にも言論の自由等存在しないと言うことは言える。何も殺さんで良いではないですか。彼は本当に正しいことしたと思っているのでしょうか?↓の経過を見ると、あの時彼がしたことは弱い者いじめに見えます。何故彼は日本中から寄ってたかって追い詰められた人々を殺し、天皇の命を狙う暗殺者から天皇と皇室を守ろうとしなかったのでしょう。
以下転載
嶋中事件
【事件概要】
1961年2月1日夜、東京・新宿区市ヶ谷の出版社「中央公論社」嶋中鵬二社長宅に、少年K(当時17歳)が押しかけ、登山ナイフで社長夫人と家政婦を殺傷。
犯行は、雑誌「中央公論」に掲載された小説「風流夢譚」(深沢七郎・著)が天皇を冒涜しているとする主張によるものだった。
K
【「風流夢譚」】
犯行動機は前年11月発売の雑誌「中央公論12月号」に掲載された小説「風流夢譚」(深沢七郎・著)が天皇を冒涜しているとする主張によるものだった。
※深沢七郎・・・・1914年、山梨県東八代郡石和町に生まれる。日川中学卒業後、職を転々とし、ギタリストとしても活動した。56年、42歳で「楢山節考」で第1回中央公論新人賞を受賞してデビュー。嶋中事件を契機に一時筆を絶ったが、62年に復帰している。87年8月、心不全のため死去。享年73歳。
「風流夢譚」には革命により皇族の処刑されるというショッキングな場面があり、それらは夢の中の出来事として書かれていた。
この作品は深沢氏の持ちこみによるものだったが、すぐには掲載されず、長期間保管されていた。噂のひとつには、竹森編集長が話題づくりのため、三島由紀夫に「風流夢譚を読んでもらい、「面白い。載せてみてはどうか」と言ってもらったというものもあるという。
この作品を受けて、宮内庁は「たとえ夢の話でも見過ごすわけにはいかない」と不快感を発表。また大日本愛国党員8名が京橋の中央公論社に押しかけ、「皇室を侮辱するものであり、謝罪文を出せ」と要求した。
11月30日、竹森編集長は宮内庁に出向き、実名小説の扱いについて配慮が足りなかったと謝罪。そして「中央公論 新年号」には次のような謹告を掲載した。
「先号に深沢七郎の『風流夢譚』を掲載しましたが、この作品の文学上の評価は別として、実名を用いた小説の取扱いに十分の配慮を欠いた結果、本誌の読者のなかには編集部の意図とは異なる受け取り方をされた方々もあり、いたずらに世間を騒がせてしまったことについて、編集者として関係方面ならびに読者諸賢に深く遺憾の意を表するものであります」
しかし、右翼による批判は続いた。大日本愛国党もデモ隊を組織していたという。1月30日には日比谷公会堂で「赤色革命から国民を守る国民大会」が開催され、「中公を死刑に」「三文作家に日本という尊い国がほうむられていいのか」という活動家の言葉に集まった1300人の観衆から拍手が起こった。「浅沼社会党委員長刺殺事件」の山口二矢をモチーフにした大江健三郎の小説「セブンティーン」が、「文学界 1、2月号」(文藝春秋)に掲載されるなど、タイミングも悪かったのである。
さらに当時の池田内閣も「中央公論社を告訴する」と言い出すなど、同社はあまりにも巨大な敵を作ることになり、倒産の危機に陥った。「中央公論」編集長、編集次長が辞表を提出。人事異動が行なわれた。
そんな時、Kによる事件が起こった。殺害された丸山さんは同社の社員の母親であったので、嶋中社長は記者会見で「自分自身が犯人のような気持ち」と話した。
さらに「中央公論 3月号」では殺傷事件に関してのお詫びが掲載された。
「『風流夢譚』は掲載に不適当な作品であったにもかかわらず、私の監督不行届きのため公刊され、皇室ならびに一般読者に多大の御迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。またこの件を端緒として殺傷事件まで惹き起し、世間をお騒がせしたことを深く申し上げます」
【K】
略
事件前日、「右翼生活は性格に合わない。田舎に帰る」と本部を出ていった。これは赤尾氏に迷惑をかけてはならないという理由だったという。
事件後、赤尾氏は殺人教唆の疑いで逮捕されたが、4月17日に証拠不十分として釈放された。
62年2月、東京地裁、Kに懲役15年の判決。
64年11月9日、東京高裁で控訴は棄却され、刑が確定した。
【その後の人々】
04年8月、雅子夫人が亡くなった。79歳だった。雅子夫人は97年に嶋中社長が亡くなった後は社長、会長を歴任していた。
一方、芸人風のキャラクターで、新進気鋭の作家として将来を期待されていた深沢七郎は事件後すぐに身を隠し、埼玉県で牧場を開いたが、親しい人間以外とは絶対に会わないという隠遁生活を続けたとされる。
http://yabusaka.moo.jp/simanaka.htmより抜粋転載
結局被害者が謝まって!怒りを怒りで跳ね返すことができなかったのでしょうか?殺した方の怒りはどこまでも正当で、殺された方はどこまでも萎縮する。こんな情けない話があるのかと思います。
怒り狂って暴力を振るった奴に殴られたからと言って一方的に謝り、怒りに怒りで応えることができないのは残念です。家族を殺された上に謝罪。暗殺者は英雄でしょうか。暗殺者の怒りだけが正当で、殺された方が一方的に悪いというのは間違いです。この社長は右翼に怒りより恐怖を感じたから、家族が襲撃された怒りを忘れたのでしょう。
日本は基本的に天皇批判はあまりできない国なのでした。しかし、殺人を犯した人が15年で出てくることは納得できないものがあります。家族を殺した以上、この男自身イスラム圏の部族社会なら復讐されてもない方ない訳ですね。寄ってたかって権力からもマスコミからもリンチされている奴がいたら助けるべきでしょう。死なずに済んだなら一生、皇室を守ってくれ。
日本にはイスラム社会の言論弾圧云々を言う資格はないのかも知れない。
事件直後、詫びるべきは政府と右翼だったのではないでしょうか。社長が詫びるべきじゃなかった。社長は右翼テロを弾劾するべきでした。でも、それはとても無理な状況でした。政府や右翼が詫びることなどないとは言えないと私は思うのですが。