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語り継ぐ夏<下> ヒロシマを伝える 石川県加賀市 西藤康広さん(72)
◇60年秘めた封印解く
「水を求めて防火水槽に頭を突っ込んだまま死んだ人々、丸太のように山積みで焼かれた死体。あの時、広島で見た光景は今も鮮明に覚えています」。十一歳で広島で被爆した石川県加賀市山代温泉、西藤康広さん(72)。六十年間、原爆の記憶を封印してきたが、昨年七月に金沢市で原爆の悲惨さを伝える朗読劇「この子たちの夏」を見て、終演後の交流会で発言したのをきっかけに、自らの被爆体験を語り始めた。
原爆投下から十日後の一九四五(昭和二十)年八月十六日、西藤さんは疎開先の広島市郊外から戻り被爆した。広島駅から見渡した街は二キロ四方が焼け野原だった。母親と四人の姉弟も投下時に市内の自宅で被爆していた。市内は死傷者であふれ、傷口にわいたウジを取ってほしいと頼まれて竹べらで取ってやった。水を欲しがる人に一口飲ませると、安心したように死んでいった。土手では魚を扱うようにとび口で遺体を引っ掛け、山積みにして燃やしていた。
十八歳のころ、腰の痛みや肩甲骨の辺りに違和感を覚えた。背骨に原爆の影響とみられる変形があった。痛みは今も残り、退職後、十五年前に加賀市に移り住んだのは温泉療養のためだ。発症当時は「被爆者には嫁がこない」と言われた時代。普通に職を得て生活に困らなかったから、被爆者健康手帳は取らなかった。「思い出すたび憂うつになり、突然目の前が光ったりする。生きるため、原爆のことは忘れていたかった」。被爆者であることを隠し続けた。
しかし、原爆の影は確実についてきた。姉や弟は年下から次々に死んだ。顔にケロイドを負いながら必死に生きた友人たちも、年を追うごとに減った。昨年五月には四十三歳の長男を肝臓がんで亡くした。超未熟児で生まれ、一度は助からないと言われた命。因果関係は明らかでないが、西藤さんは自分が被爆したせいだと感じている。「友人や家族を失うたび、不安が大きくなった。一生引きずり、つきまとうのが戦争なんです」。昨年一月、広島の八十歳代の知人二人に証人を頼み、被爆者手帳を取得した。
そんな時、知人に誘われて朗読劇を見た。女優が語る広島の被爆風景は感傷的で美しかった。交流会で、高校生が「当時の写真が見たい。イメージがわかない」と発言した。「本当の戦争はそんなもんじゃない…」。西藤さんは思わず、封印していた記憶を語り出していた。驚いた表情を浮かべる人々。話し終えると次々に声を掛けられた。「戦争の真実を語り継いでください」「子どもたちに話してほしい」。昨年と今年の二回、戦争体験を語る会に出席した。
六十年もの間、胸に秘めてきた記憶を語ることは西藤さんにとってつらい作業だ。「話さなくて済むなら、本当は話したくない。終戦の時期にだけ戦争を思い出せばいいという風潮にも疑問がある」
一方で、「戦争を知らない世代に真実を伝えたい」との思いも。イラクへの自衛隊派遣、アジアに対する外交姿勢、憲法改正の議論−西藤さんは今の日本の空気に、当時と近いものを感じている。「いつの時代も戦争で政治家や経済人だけが得をし、国民は犠牲になる。人間は過ちを繰り返す生き物だが、戦争だけは繰り返してはいけない。それを訴えたい」 (報道部・加賀大介)
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/00/ikw/20060817/lcl_____ikw_____005.shtml