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@8月6日付・読売社説(1)
[原爆忌]「『北』の核の脅威を見ない平和宣言」
なぜ原爆の惨禍を避けられなかったのか。
広島、長崎の被爆から61年。もう、かつての保革のイデオロギーや政治的対立などに左右されることなく、原爆にかかわる戦争責任について、冷静に議論を始めていいころではないか。
先の大戦時の交戦条約は、不必要な苦痛を与える兵器や無防備都市への攻撃を禁じていた。原爆投下は、条約に違反する可能性がある、と指摘されている。
オランダ・ハーグの国際司法裁判所が核使用について、「一般的に国際法に違反する」とした勧告的意見を示して、今年でちょうど10年になる。
こうした背景から、被爆地にも、原爆投下の経緯と責任を問い直そうという動きが出ている。
先月、被爆者や弁護士らが国際民衆法廷を広島で開き、原爆投下を決定したトルーマン大統領(当時)ら15人の米国関係者に対し、“有罪判決”を下した。
米国では、原爆投下が戦争を早期に終結させ、戦死者を減らすことになった、とする見方が一般的だ。日米の原爆観の隔たりは大きいが、論議をすることは大切なことだ。
だが、この“法廷”は、従来の反核運動に見られがちな一方的な反米意識の流れの中で開かれたようだ。冷静な議論ができたとは言えまい。
早期に戦争終結が出来たら原爆投下を避けられた可能性はあった。ドイツ降伏時、沖縄戦の終了時、降伏の条件が連合国から示されたポツダム宣言の発表時など、戦争を終結させる機会は何度もあったのである。
原爆被害の責任を論じる際、終戦工作が遅れた日本の指導者層の対応も問われる点だ。
今年の原爆忌は、核兵器開発を進める北朝鮮が、核の運搬手段であるミサイル7発の発射を強行して1か月という状況の下で迎える。北朝鮮の暴走に憤りのメッセージを発することは、被爆地がなすべき務めでもあるのではないか。
6日に広島市の秋葉忠利市長が行う平和宣言には、それがない。
主張の柱は、自身が会長を務める「平和市長会議」に加盟する世界1403都市が、核保有国に対し、自分の町が攻撃目標になっていないか確認し、目標の解除を求める行動計画である。
最高の軍事機密である攻撃目標を明かす国がどこにあるだろうか。
国際情勢から乖離(かいり)した非現実的なスローガンが並ぶだけでは、日本が直面する核の最大の脅威から、目をそらしていると言わざるを得ない。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060805ig90.htm
(2006年8月6日1時34分 読売新聞)