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(回答先: 上でご意見をくれたすべての方へ、先住民問題は、資本主義の中では解決しないと思う。 投稿者 東京音頭 日時 2006 年 7 月 11 日 10:54:24)
今までROM専でしたが、初めて投稿します。
私は、東京音頭さんの書き込みの「先住民問題は、資本主義の中では解決しない」という見方に賛同します。
東京音頭さんは先住民問題を、『資本主義(といっていいのか)対、古代共産制を残す、土地や色々なものが共有であり、自然と共存してきた民族との対立』と表現しておられますが、まさにそのとおりだと思います。
資本主義だけでなく、人権主義、平等主義、社会主義、個人主義、民主主義、人種主義、政治的現実主義、近代主義などの西洋思想は、「個人(あるいは人間集団)の利益の最大化は原則として許容される」という価値観に根ざしています。それはヨーロッパのあまり豊かでない風土が生み出したものでしょう。そしてこの観念が西洋世界中で共有されていったがために、皆が争い(=暴力的闘争)をするようになる。そしてその争い自体を正当化するために、「物象や精神性に対する意味づけを徹底し、世界を言語的な理解の対象として普遍的な一つの観念で説明するべき」という観念が生み出されていきました。闘争を肯定し、他者に勝ち続けていくには、最終的にはあらゆる人間を言語的に説得する(腕力だけでなく、社会的地位を維持することに対する正当性を争う論争においても勝つ)しかなく、あらゆる人間を納得させるには、自己の正当性を示すだけの普遍性を持った根拠、ロジックが必要になる。ロジックというのはどの文明でも言語によって示すほかないのですが、西洋社会ではこの言語の論理的作用が世界的に見て特に重視されるようになっていき、したがって文字でものを書くことは最高の教養とされました。そのための方法論として、実際のディベート用の弁論術と、ロジック構築用の論理学、修辞学が発達していった。そのことの最大の産物が、一神教や聖書(これも文字)を奉ずるキリスト教神学や一般性を重要視する西洋学問でしょう。
キリスト教神学では人間(白人=神のコピー)を他の被造物(有色人種を含む生物一般や、自然物、人工物)に対して上位に置いて、高等な人類が利益追求を行うために下等な被造物を意のままに操ることを基本的に肯定しています。更に同じ人間の間でも、男性を女性の上に置いたり、「倫理」や「美的感性」を一般化してそれを受け入れない人間と受け入れる人間との間に人間性の序列を作ったり、職種や財産や家柄などの社会的地位で人間としての存在価値に差をつけるなど、完全ピラミッド型の完璧なレジームを作り出しました。思想の中身が何を示していようと、これらの価値秩序は全て、基本的には「自分が他者に対して普遍的に正しいこと」を証明し、自分の行動を正当化し、自分の社会的地位を上げるための手段として利用するために作られたのであり、その証拠として、西洋では思想や宗教観、芸術作品などは盛んに討論され、「筆者の個人名を伴って」記録され、出版・発表され続けてきたのです。各地の君主や貴族は自分の社会的地位を普遍的な神の権威で正当化しましたし、宗教家は一神教的な一般性で自己を正当化しましたし、哲学者は論理的な一般性、科学者は科学的な一般性、発明家は特許権(最近では知的財産権)の一般性と発明の効用の一般性、資本家は資本主義の一般性、社会主義者は社会主義の「科学的」一般性でそれを行ってきました。(ちなみに近代法は宗教的な一般性を制度論的・論理的な一般性に置き換えただけのものであり、その証拠に、現在の裁判制度では被告・原告が自己の利益拡大追求に有利な権利を行使・主張し、言葉で以て相手を打ち負かせることを基本に据えた制度になっています。そのためにいずれの西洋法思想も基本的には人間の利益追求を原則的に容認しています。)
このような西洋的なイニシエーションには致命的な欠陥があります。それは、最終的に人間の間に完全な差をつける(=つまり勝ち負けをはっきり決める)ことを目的としているがために、制度的に必ず弱者を生んでしまうことです。しかも、普遍的合理性がロジックの中に貫かれてしまうために、弱者が弱者である理由すら合理的に説明付けされてしまいますし、ある一つの部分で劣っているものは他の部分でも劣っているという結論が導き出されます。西洋社会で、人間的に高貴で倫理性が高い(ということになっていた)人達が君主や貴族や僧侶など経済的・社会的エリートであったことや、金を手に入れた新興ブルジョワが政治的権利と社会的地位向上を求めて近代革命を起こした理由はここにあります。(西洋化する前の日本ではこんなことはありえませんでした)つまり、西洋の制度(を支えるロジック)は基本的に弱者(敗者)を必要とし、そして合理的に敗者を生んでしまうわけです。
資本主義は、土地財産の所有権をベースとし、個人の経済的利益追求を(基本的には)最大限に肯定する思想ですが、はっきり言って破綻しています。それは、「人間の欲望は無限だが、人間が価値を生産することのできる実体経済の力はいつの世も有限だ」という命題と、「人間は自己の経済的利益最大化のために常に合理的選択を取る」という経済学の大前提の誤りから証明できます。前者はかつてマルサスが「人口論」で暗に指摘したことでもありますが、誰か、あるいはいずれかの人間集団が常に利益を拡大していく(国単位で言うと、常にある国が経済成長をしていく)には、常に経済的敗者を必要とします。経済的利益拡大とは、逆を言えば経済競争を意味します。皆が有限な経済的パイを少しでも人より多く取ろうとすれば、かならず配分に不均等が生じます。そして民族や人種、文明圏単位で経済圏が分かれていれば、必ず経済的に不利に立たされる民族や文明圏、人種が出てくる。資本主義は「自己の経済的利益最大化のために常に合理的選択を取る」人間、つまり経済競争に勝つことそれ自体に価値を見出す人間が勝つためのシステムですから、そういう価値観を持たない文化圏の人間は常に排除されていく。特定民族、特定人種が、資本主義を受け入れられないがために資本主義とは異なった自己の文化的アイデンティティにしがみついている限り、また資本主義の中で構造的に差別されている人間集団に属している限り、資本主義の中で弱者(敗者)にならざるをえないという状態になってしまいます。
こんなことは、西洋思想がなければありえなかったことでした。しかし、現実にはそれによってインディアンの悲劇やアイヌの悲哀、アフリカの現代にまで続く荒廃が生まれたわけです。
民族問題は資本主義の中では解決しない、まさにそのとおりだと思います。