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(回答先: パレスチナ評議会選の投票実施 ファタハ、過半数割れか 【産経新聞】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 1 月 26 日 05:34:01)
パレスチナ評議会選挙の著名候補者 横顔と略歴
【アルジャジーラ特約24日】パレスチナの立法機関、パレスチナ評議会選挙が25日に行われるが、以下は著名な候補者の横顔。
□ファタハ
マルワン・アル=バルグーティ
46歳。アッバス自治政府議長が率いるファタハ候補者リストのトップに位置する。イスラエルの占領に抵抗した第2期インティファーダで最も人気があった指導者。アッバス議長の後継者に擬せられる。
前評議会の一員であり、イスラエル人とギリシャ人聖職者を殺害した事件でイスラエルの刑務所に終身刑で服役中。
イスラエルの平和活動家と手を結んだことがあって、イスラエルの存在を認めたパレスチナ国家を創設を支持するが、イスラエルを占領地域から駆逐するためには暴力を使うべきだという立場。
ファタハの青年防衛隊のリーダーとして、同派の世代交代を推進している。政治的な文脈から言って釈放されるのが筋という推測が常に浮上するが、イスラエル政府は早期釈放を認めないとしている。
ムハマッド・アブ・アリ・ヤッタ
50歳。候補者リストの第2位。イスラエル人入植者を殺害した罪で終身刑を宣告され、イスラエルで26年間、服役中。最長収監者の一人。ファタハの中で役職に就いたことはなく、数千人に上るイスラエルでの収監者に対するゼスチャーとして選ばれたとみられている。
インティサル・アル=ワジール
64歳。パレスチナ女性運動の長老。1996年から社会福祉大臣を務めたが、1988年、イスラエルの特殊部隊がチュニスでパレスチナ解放機構(PLO)本部を襲った時、殺害された当時の軍事部門の長、カリル・アル=ワジールの未亡人でもある。1974年以来、パレスチナ民族評議会(PNC)メンバー。
□ハマス
イスマイル・ハニヤ
46歳。ガザ地区のシャティ難民キャンプで生まれ、ガザ市のイスラミック大学を1987年に卒業してアラビア文学の学士号を取得、ハマスの創設者、シェイク・アハマド・ヤッシンの側近となった。
1992年、イスラエルによってレバノン南部に追放され、一年後にガザに帰還。イスラミック大学の学部長となった。96年にヤッシンの官房長となる。プラグマチストで、ハマスとパレスチナ自治政府間の渉外役を務めた。2004年にヤッシンとその後継者とされたアブド・アル=アジズ・アル=ランティシがイスラエルによって暗殺されると、一躍脚光を浴びた。1990年代からハマスの政治指導部のメンバー。
ムハマッド・アブ・タイル
55歳。ハマス候補者リストの第2位。イスラエルの監獄で25年を過ごす。エルサレムの出身で、以前にファタハとパレスチナ解放人民戦線(PFLP)総司令部派に所属。 イスラムの伝統に沿って、染料ヘンナで明るいオレンジ色に染めたあごひげを持ち、地方のモスクで説教を行う。エルサレム近郊のウム・ツバ周辺のアブ・タイル部族の長老でもある。
ジャミラ・シャンティ
50歳。候補者リストの第3位でハマス女性候補者の中の指導的地位にある。英語学の博士号を持ち、選挙運動に打って出るまでは、ガザのイスラミック大学で教えていた。ハマスの女性部創設者。
□独立パレスチナ党
ムスタファ・アル=バルグーティ
エルサレム生まれの医師で、西岸・ガザ地区で保健シンクタンクと民主主義運動ロビー活動を行って知名度がある。2005年の自治政府議長選挙でアッバス現議長の対抗馬となり、得票率は20%。
1991年、イスラエルとパレスチナの間の和平合意に道を開いたマドリッド中東和平会議に参加した。理路整然とした物言いとメディアの扱いに長じ、イスラエルの分離壁政策に反対してキャンペーンを張った。ファタハのマルワン・バルグルーティ候補の遠い親戚。
ラウヤ・アル=シャワ
同党の候補者リスト第2位。前評議会のメンバー。ガザの名家の出身で、父と夫がガザ市長を務めた。パレスチナ評議会では反汚職キャンペーンを張り、ヤセル・アラファト前議長に対する批判者として目立った。
□第三勢力
サラム・ファイヤッド
53歳。「第三の道」党の創設者。イスラエルとの交渉に賛成し、汚職撲滅のための徹底的な改革を唱える。2002年以降、財務相を務め、自治政府の財政整理の業績で信頼を得た。元国際通貨基金(IMF)の上級幹部で、テキサス大学大学院卒。
ハナン・アシュラウィ
59歳。キリスト教徒。1987年の第1期インティファーダでパレスチナ政界の星となった。1991年〜93年の中東和平会議でパレスチナ代表団スポークスマンとなり、雄弁かつ時に攻撃的で知られた。和平合意の後は、エルサレムの市民権に関する委員会を束ねた。1996年、高等教育相に任じられ、1998年、汚職をめぐってアラファト議長(当時)と大論争の末、辞任した。
前評議会を代表するメンバーであり、米「外交評議会」などの多くの国際組織で活動する。(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
2006年01月25日19時13分
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1663049/detail