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(回答先: 「テンプル騎士団起源説」 投稿者 金十字架 日時 2006 年 5 月 23 日 18:55:58)
◆転載
彼の著書の「パルナッソス情報」は、風刺作品である。アポロンがパルナッソス山で裁判を開き、そこへ様々な歴史上の人物がやってきて、不平不満をぶつけ、議論するといった内容だ。
その架空の議論のなかでは、イタリアを侵略するハプスブルグ家が非難され、侵略の結果イタリア文化が衰退していることを嘆いている。
「名声」は、このような著書の1章と抱き合わせた形で出版されたのである。
「名声」と抱き合わされた章は、トリエント宗教会議を風刺した章である。この章の中で、アポロンは悲惨な現状を何とかするためにも改革が必要と考える。そこで、賢者達を集め議論をするが、賢者達のいうことは机上の空論ばかりで役に立たない。改革者達は、どうでもいいようなことばかりに気を取られ、肝心の本質的な改革をあきらめてしまう。そういった内容である。
ボッカリーニは、前の宗教改革は失敗であったと断じ、新しい宗教改革が必要であること、それはキリスト教的な博愛や慈悲に重点を置いたものでなければならない、と主張した。
そして、彼は「名声」に自分の主張と通じるものがある、と考えたのである。
彼は、この小冊子が出る前年の1613年に世を去っている。暗殺説もあるが、現在の歴史学者達は、後年の作り話しという結論に達している。
イタリアの知識人達とアンドレーエとの間には親交があった。
アンドレーエは、上記のボッカリーニを自著の中で好意的に取り上げ、また影響を受けているとの指摘もある。また、獄中のカンパネラとも連絡を取り合い、かの「太陽の都」の草稿も受け取っているのである。
ともあれ、イタリアの知識人たちは、カソリックの対抗宗教改革にも(無論ルターやカルヴァンの宗教改革も)失敗したと考えていた。そこで彼等は、より広い視野に立った、全世界レベルでの普遍的な改革が必要と考えた。
こうした動きが、ユートピア理論を生み、薔薇十字運動と結びついたらしい。
私も薔薇十字の改革思想はプロテスタントに限定されない、よりグローバルな視野に立ったものと考えるべきだと思う。
とはいうものの、薔薇十字運動は主にプロテスタント達によって支持されており、ゆえにカソリックの本拠地であるイタリアでの盛り上がりには自ずと限界があった。
ただ、時代がかなり下がった18世紀に、奇妙な事件が起こっている。
ドイツで黄金薔薇十字運動が盛り上がっていたころのことだ。黄金薔薇十字団のビショッフスヴェルダーとヴェルナーに、テンプル騎士団系のフリーメーソンは、会員の多くを黄金薔薇十字に取られ、やきもきしていた。
当時、テンプル騎士団系のフリーメーソンには「秘密の首領」がおり、それは名誉革命でイギリスを追われたスチュワート家の代々の王位継承者である、と噂されていた。要するに、ジャコバイト運動(スチュワート朝復興運動)とメーソンとの結びつきは、ドイツでも起こっていたのだ。
そして、その「秘密の首領」はイタリアに潜伏していると信じられていた。
そこで、テンプル系メーソンの指導者でシュットゥガルドの宮廷顧問官ヴェヒターは、この「秘密の首領」と接触を取るべくイタリアに入った。この調査報告は1778年に成される。
彼はフィレンツェに居るスチュワート家の子孫と接触したが、彼等の答えは「メーソンなんか知らない」であった。しかし、彼は、それとは別の秘儀参入者に接触したという。
そのアデプトが言うには、テンプル騎士団は薔薇十字団の数ある支部の一つに過ぎない、という。そして、ヴェヒターに薔薇十字団のイニシエーションを施したという。
この彼の報告は、テンプル系メーソンに恐慌をもたらし、あやうく彼等はテンプル騎士団風の儀式を放棄し、黄金薔薇十字団化するところだった。
懐疑的な歴史家には、ヴェヒターは、テンプル騎士団系メーソンの大幹部である貴族達を失望させないために、この話しを捏造したと見ている者が多いようである。
だが、やはり真相は藪の中である。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/itaria.htm