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安倍氏は今頃自分の別荘にこもって新内閣人事について思案中だろうか?安倍氏が一番やりたいことが「教育基本法改正」という。文部科学省大臣は誰になるのだろう?
安倍政権でこうなる教育改革 【産経Web 教育を考える】
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/200609/060904b.html
高校3月卒業、大学入学を9月にして徴農、ボランティアをさせる。ジェンダーフリー教育はやめさせる。徳育を中心にした教育。ゆとり教育はゆるみ教育だからカリキュラムを見直して、官邸主導に。愛国心はもちろん明記する。
国家による教育とは、究極のところ個人と家庭を一元的に支配しうるカルト宗教にも似ている。国家が教師を支配し、教師が子どもやその親を支配していく。こうした上意下達式の教育形態は市民・個人の(国家による)内心の奴隷化を目指すものである。
東京地裁の「都教委と都の通達や指導は『強制』ととらえて教育基本法が禁じる『不当な支配』に当たると判断したこと」「思想良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置であると結論付けたこと」は、国家と教育の危険な暴走を押しとどめる判決でもあろう。
15〜6年前、ある教育評論家の講演会で「文部省通達に強制力はない」「教育基本法に沿った教育の実践が戦後忠実に行われていれば、日本はもっとすばらしい人材を世界に輩出したであろう」というような話を聞いた。(私は文部科学省に変わった後もずっと通達は強制力はないと思っていた。)
各地の教育委員会の指導は憲法・法律に違反することがないよう現場の実態をチェックする機関であるべきと思っていたのだが、管理行政機関に成り下がっていたのはたしか。教育委員会に学校現場での問題を電話すると「校長の裁量権の範囲」と言って逃げてばかりいた。
教育が廃退した原因の一つは、官庁・教育行政・学校現場の管理者達の責任逃れと押し付け合いによるものと私は考えている。教育改革はこうした責任の所在を明確にして、検証・基本法理念の実践化に徹すれば、十分解決できるものはあったと思っている。
PISA(OECD生徒の学習到達度調査)でトップの成績を示したフィンランドの教育は、日本の教育基本法が参考にされ、理念の実践により得られた結果であることは、今ではもう内外で知られた話。
ところが日本の教育はエコノミストの要望・提言が、文部科学省(文部省)を動かし、学習指導要領などに反映されてきた。いま「格差社会をもっと進めろ」発言が経済界から臆面もなく発せられている。その上国の根幹を揺るがす憲法や教育基本法の改定にまで言及されている。
勝ち組と負け組みという言い方をされるが「実態は一握りのエリート(勝ち組)とその人たちを支えるその他大勢の人々(負け組み)という構造」(斎藤貴男氏)になっている。負け組み同士は相互不信を抱えながら、お互いに足を引っ張り合って、少しでも上に這い上がろうともがいている。
以下『教育改革と新自由主義』(斎藤貴男著)より引用。
タカ派の中山正暉氏(自民党・前衆議院議員)に取材した時「僕は怖いんです。40代の議員が『中山先生、北朝鮮がテポドン撃ってくるというんですから、こちらから先制攻撃をかけましょう』って言うんですよ」
中山氏はその前に「ちょっと待ってくれ、ミサイル撃ったら人が死ぬんだよ」と答えたといいます。若い議員は2世、3世が多く、生活の苦労もしてきていない、いわば「おぼっちゃま」ばかりです。彼らは生まれたときから上層階級としてのエリート意識を植え付けられ、だから自分は戦場には行かず死ぬはずはないのだと思っていますし、経済大国が負けるとも思っていません。
竹中平蔵氏がよく使っていたことば『フリーライダー』。「フリーライダーは権利など求めてはいけない」と主張。ここでのフリーライダーとは「税金を納めていない人、脱税している人」という意味ではなく「税金をたくさん納めていない人」という意味です。
「市民というのは何らかのかたちで尽くすものであり、お金がある者は税金を払うことで、お金がない者は体で、つまり兵役につきなさい」ギリシャ・ローマ時代に生まれた「市民」という言葉にはこうした意味が含まれているという。佐伯啓思著『市民とは誰か』を読むとこの発想がよくわかります。
多くの負け組みの中に生まれる不信と不満は、自分より下に位置する人、自分がやっている事をやろうとしない者への蔑みと、攻撃へ向かう。強制が行き着く先は排除の思想・論理であって、この国で生きていくならこうしろ、こう考えろ、国の秩序を乱すなといった他者への強制と違いを認め合わない不寛容な社会である。一昨年のイラクの邦人人質事件は、日本人の内面が不寛容化したゆとりのない社会性を示した例ともいえよう。
日本の教育は、基本法を変えなくてもじわじわと強制の教育の結果が浸透してきているのである。
「できん者はできんままでけっこう。できる者を限りなく伸ばしてやって、非才・凡才にはせめて実直な精神だけを養ってもらえばいい」と言ったかつての教育課程審議会会長、三浦朱門氏。
その妻である曽野綾子氏も時々ひんしゅく発言を繰り返しているが、本人の著書ではこうも言っている。
「私たちも他人に親切でありたいと願っているのである。しかし親切になる方法をよくまちがえる。相手を認めること、語りかけること。共に喜ぶこと。褒めること。他人に与える光栄をになわせること。これは親としても教師としても、基本になる姿勢であろう。教育基本法は実は聖書の中に明記されていたのである」(私を変えた聖書の言葉)より
日本国民が国の奴隷となることのないように、一部の人が育成している日本型エリートが国際的に通用しないことも含めて、教育のあり方は慎重に進めなければならない。
教育の主人公は子どもであるのだが、親も教師も政治家も多くの日本人もいったい子どもの何がわかって子どもを見ているのだろうか?読み書き計算といった基礎学力と困難を乗り越えられる思考力・決断力と行動力、それらが身につけば子どもは自分の力で道を切り開いていける。十把一絡げの教育議論が安易な教育方法論で片付けられ、権力につけ込まれていく。まずは大人たちが自分の思考の鍛錬をやってからでないと、子どもの教育はできないと思う。
「基本法に忠実に」が原点であることを忘れてはいけない。それさえできない、わからない人間が改革を口にするのは100年早いというものだ。
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