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(回答先: 千葉県木更津市の山林で「B29」搭乗員の慰霊祭 JanJan 2006/08/12 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 8 月 16 日 00:36:20)
録画しなかったのですがこの8月某日に、撃墜された米軍爆撃機B24=ロンサム・レディ搭乗員の生存者や遺族を訪ねてインタビューしたり遺品を渡したりするNHKの番組がありました。
ロンサム・レディ搭乗者で被爆死した米軍捕虜を慰霊している話がここに出ています。
⇒
http://www.l-co.co.jp/times/log/98/980807/28.html
<被爆米兵慰霊の銘板を立てた己斐の森重昭さん(61)>
Webタイムズ 平成10年(1998年)08月07日 第541号
去る七月二十九日(水)、自国の投下した原子爆弾で被爆したアメリカ兵捕虜たちを慰霊する銘板(写真)を収容所跡地に設置、慰霊祭を催した地方史研究家の森重昭さん(六一)。五十年以上も闇のなかにあった被爆米兵の実相が森さんの調査でかなりわかってきた。
原爆投下九日前の一九四五年(昭和二十年)七月二十八日、現在の広島市佐伯区五日市町中地(通称鈴が峰ゴルフ場の17番ホールという)と、山口県柳井市に米軍B24爆撃機が墜落した。タロア号とロンサムレディ号、この二機の乗組員らが捕虜として旧中国憲兵隊(現広島市中区基町)を中心に収容されており、そのうち少なくとも十一人が被爆死したという。
森さんは、広島市西区己斐に戦前から住んでいる。自らも国民学校(当時。私立済美学校に在学、疎開の代わりに地元の国民学校に転入していた)三年生で、旭山神社下の橋の上で原子雲の縁端に遭遇、小川の中に吹き飛ばされた経験を持つ。当時の、己斐の全世帯千三百七十余りのうちで、当日のみで死者三十七人を出したことを、すべての家を訪問して突き止めるなど、森さんの原爆の影響への調査は多い。
自国の原爆で死んだという、戦争そのものの悲惨さを示す若者たちの消息を本格的にたずね始めたのは、一九九〇年、その遺族が消息を尋ねて来広してから。ロンサムレディ号の通信士をしていたアトキンソン軍曹(当時二五)の娘が、父の消息を尋ねての来広だったが、情報が不足、失意のうちに帰国したのだ。
旧GHQ資料をあたるうち、ロンサムレディの機長(当時二十歳)が生存しており、米テキサス州の大学で名誉教授になっていることがわかった。このトーマス・チャールズ・カートライト氏との交流が大きな力となり、彼らがどのようにして日本に捕虜になり、被爆した彼らがその後どうなったのか、多くのことが明らかになってきた。
墜落現場への訪問、百人を超える関係者へのインタビュー、生き残った機長との文通や機長の回想録、など森さんの丹念な調査で分かってきたのは次のようなことである。
七月二十八日、米第七空軍866爆撃機分隊494爆撃班三十三機は沖縄を発進、呉港の戦艦「榛名」爆撃を目指した。九人乗りのB24爆撃機ロンサムレディ号もタロア号もその中にいた。機には乗組員のほかに三個の九百キロ爆弾とポツダム宣言を書いた文書が搭載されていた。カートライト機長の「回想録」によると、簡単に片がつく気分でいたようだ。ところが、滞空三十分の間に爆撃班が受けた砲火は約三千発。森さんが当時の高射砲手に聞いたところでは、「十二門で火柱がたつような勢いで撃った」そうだ。
ロンサムレディは、雲の切れ目から爆弾を落とした瞬間に被弾し、火災を起こした。機はくるくると回転をはじめ、ハッチはすでに開かなかった。爆弾の投下口を蹴り開けて次々と降下した。カートライト機長のパラシュートが開いたのと足が土に触れたのがほとんど同時というきわどいタイミングだった。降りたのは柳井市伊陸(いかち)の山中で、直前に飛び降りた乗組員の一人は山頂で墜死し、何年もたって白骨で発見された。
タロア号は先述のように五日市に墜落した。当時現場を見に行った人は「あまりにもきれいだったので、始めは女かと思った」「女物が散らばっていた」などと話しており、女物とはおそらく家族か恋人のものだっただろうと森さんは思っている。途中、草津沖に墜落した者、西区観音の兵器工場の屋根に、膝から下を失った状態で落ちた者などがいた。
さて、生存していた乗組員は憲兵隊に連行されたのだが、その数は、カートライト氏の「回想録」により、十三人と考えられるという。ロンサムレディ七人、タロア乗組員のほかに、高知沖から呉港爆撃に来ていた二人乗りの艦載爆撃機ヘルダイバーの乗組員がいたようだ。カートライト機長は他の二人とともに日を経ず東京に送られたことがGHQの記録にあり、数日のことで機長は被爆を免れたわけである。
被爆後の米兵捕虜の消息については、昭和四十九年にNHKが募集した二千枚を超える「市民が描いた原爆の絵」の中に三枚の絵があり、それらはすでにアメリカに送られているそうだが、森さんは平和文化センターに寄贈されたそれらの絵を一枚一枚調べた結果、十人を新たに発見している。
絵の中に描かれた外国人の遺体の説明書きには多く、「市民に痛めつけられていた」ことが書かれているが、これらが報道されると、「自分はあの日、あの遺体を見たが、きれいで何も傷はなかった」という手紙が寄せられるなど、少しずつではあるが、未曽有の混乱のなかで実際に何があったかが、分かってきている。
爆心地近くで被爆した米兵たちは即死した者もあったが、瀕死の状態でどこかへ向けて逃れようとしたのだろう。護国寺前で発見された者、相生橋付近で息絶えた者、宇品まで逃げてつかまった者などがいた。一九九六年には機長や遺族の依頼で、原爆死没者名簿に被爆米兵の名前を登録した。
写真の上部両端にあるのは、右がロンサムレディ号乗組員、左がタロア号乗組員である。右は遺族から寄せられ、左は、アメリカで映写されていたニュース映画(?)から、フィルムを借りておこしたもの。下の英文は、カートライト氏のメッセージである。
森さんは「調べれば調べるほど、戦争には勝者も敗者もないという感を深くする。遺族が、たとえ悲惨な最後であっても消息が分かったことを喜んでくれ、またこの銘板の設置を喜んでくれて何よりと思う」と話している。
[参考]
爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵(NHK出版)
http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00808882004
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