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(回答先: Re: 原子力空母母港化と上空飛行制限(米軍機編) 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 6 月 16 日 23:22:03)
[参考]
「もく星号」事件の考察
http://www.kk.iij4u.or.jp/~isao9pw/moku.htm から抜粋。
戦後の民間航空は米軍占領下の昭和26年10月25日ノースウエスト航空より機体とパイロット及び運行管理技術の提供を受け日本航空の名称で再開された。この記念すべき第一便となったのが「もく星号」であった。昭和27年4月サンフランシスコ平和条約の発効直前、実質的には占領状態の米軍管制下で1952年4月9日午前8時過ぎ羽田発大阪経由福岡行きの日本航空マーチン202「もく星号」は伊豆大島の三原山に墜落した。羽田出発前のクリアランス(離陸許可)「館山通過後10分間南へ2000フイート」とあり「羽田出発後」に訂正したとなっている。飛行ルートA3.G8.G10は羽田から館山間はほぼ真南、館山から西寄りに方向を変え大島から真西へ飛ぶコースである。仮に館山通過後10分間南へ飛べば三宅島北側上空に達する。当時の天候、飛行支援施設(ラジオビーコン)機材の性能を考えた場合かなり無理な要求である。従って「南へ」の部分は修正されたであろうが「2000フイート」は維持されていた可能性が高い。
1952年の4月は米国が軍事的にも政治的にも極めて困難な時期に当たり日本占領初期の理想主義は色褪せ、なりふり構わぬ防共ラインの構築の為に強圧的政策に転じていた。李承晩の独裁制を危険視しながらも反共政策ゆえに容認し対共産主義前線を形成すべく対日講和条約による日本の占領解除、再軍備と朝鮮半島への後方支援工場化を急ピッチに進めつつあった。朝鮮戦争の推移も予断を許さない局面にあり米国の軍事優先政策が頂点に達した時期であった。
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