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(回答先: 序文 本書の目的と構成 木村 敬 【新党全記録】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 3 月 05 日 16:15:01)
TOP 【「新党全記録」目次】 http://politics.j.u-tokyo.ac.jp/lab/edu/seminar/study/1st-semi/mokuji.htm#jobun
第1章 日本新党
東 高士
http://politics.j.u-tokyo.ac.jp/lab/edu/seminar/study/1st-semi/jokyo/n-shin.htm
1.年表
1992年(平成4年)
5月 7日 「自由社会連合(仮称)」結党構想を発表(細川)
9日 文芸春秋6月号に結党宣言掲載
22日 党名を「日本新党(JAPAN NEW PARTY)と決定。参議院
議員の一部の比例代表区候補者を公募により選出することを決定、政治
団体として日本新党結党届け出(東京都選管)
6月 5日 東京都港区高輪2ー1ー13に党本部を開設
10日 基本理念および党機構について記者会見
15日 日本新党を支える会(政治団体)結成
24日 「日本新政策研究センター」を党とは別組織として設立、代表発起人、
発起人の一部を発表
7月 7日 参議院比例代表名簿登載順位を決定(16人)
8日 第16回参議院議員選挙公示、渋谷にて第一声
26日 第16回参議院選挙投票日、4議席獲得(361万7235票)。細川
護熙、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎
8月 7日 第124回臨時国会開会、参議院議員初登院
17日 「日本新党を支える会」を日本新党の政治資金団体として指定届け出。
日本新党を政党として届け出
10月 6日 政治改革に関する10ヵ条発表
22日 日本新党党則決定(11月1日より施行)
26日 日本新党党則および党員人事について記者懇談会(参議院会館にて)
27日 政策・組織説明会(アピオ大阪)参加者151名
29日 政策・組織説明会(芝青年会館)参加者352名
30日 第125回国会、所信表明演説に対するコメント発表
11月 5日 政策・組織説明会(日本新党本部ホール)参加者147名
6日 参議院改革発表
17日 「女性のための政治スクール」開校について記者発表
24日 次期衆議院議員選挙候補者の公募に関する記者発表。地域支部を結成し、
支部長を選任
29日 愛知県第一支部結成シンポジウム開催
12月 2日 日本新政策研究センター設立発起人総会開催
15日 静岡第一支部結成
16日 「日本新党政策大綱および要綱」発表
24日 日本新党熊本発足
25日 「女性のための政治スクール」第一次応募締切
1993年(平成5年)
1月 4日 第44回衆議院議員選挙「候補者公募」第一次審査締切
20日 「日本新党を支える会」を政治資金団体指定から解除
21日 「民主政治協会」を結成
26日 「民主政治協会」を日本新党の政治資金団体に指定届け出
2月 2日 「女性のための政治スクール」開校式(高輪ホール)
10日 東京都議会議員選挙第一次候補者発表(都庁)。公認候補10名、推薦
候補2名
11日 衆議院議員選挙「候補者公募」第二次選考会(高輪ホール)
14日 山形県知事選挙 高橋和雄(推薦)当選
3月23日 東京都議会議員選挙第二次候補者発表(都庁)。累計 公認候補17名、
推薦候補2名
30日 衆議院議員選挙第一次候補者発表(高輪ホール)
4月13日 「政治腐敗防止特別措置法」法律案要綱(骨子)発表
28日 東京都議会議員選挙第三次候補者発表(都庁)。累計 公認候補20名、
推薦候補10名
5月 7日 東京都議会議員選挙対策本部発足
10日 「政権交代期成同盟の提唱」を中央公論に発表
13日 東京都議会議員選挙第四次候補者発表(都庁)。最終累計 公認候補2
2名、推薦候補10名
24日 尼崎市議会議員選挙で候補者公募を実施
31日 第14期東京都議会議員選挙にむけて発表。「東京政策とその方向性ー
国際文化都市TOKYOを目指してー」
6月 5日 第一回ボランティア大会
18日 東京都議会議員選挙告示。宮沢内閣不信任案成立、衆議院解散
23日 松崎哲久を除名処分とし参議院比例名簿推薦順位より除外決定
27日 東京都議会議員選挙投票日。公認候補20名(トップ当選9名)推薦候
補7名当選
7月 1日 「政策理念と基本課題」発表
3日 第40回衆議院議員選挙候補者90名発表(公認候補55名、推薦候補
22名、支持13名)。新党さきがけとの合意事項発表。安藤博政策副
委員長が離党
4日 第40回衆議院議員選挙告示。第二回ボランティア大会
10日 新党さきがけとの院内統一会派結成合意の発表
14日 第40回衆議院議員選挙推薦候補者1名追加、累計91名
16日 小島慶三、山崎順子(円より子)参議院議員比例区で繰り上げ当選
18日 第40回衆議院議員選挙投票日。公認候補35名(トップ当選17名)
推薦候補15名、支持9名当選
19日 新党さきがけと日本新党、衆議院にて院内統一会派結成発表
20日 松岡満寿男を追加公認
23日 新党さきがけと共に「政治改革を断行する政権」樹立を提唱。遠藤利明
と近藤豊が無所属のまま統一会派入り
29日 連立政権に関する合意事項発表、7党1会派覚え書き発表。細川護熙が
首班指名候補に
30日 ボランティア感謝の集い
8月 2日 新党さきがけ、日本新党院内統一会派結成届け出(名称「さきがけ日本
新党」)
3日 近藤を追加公認
5日 特別国会開会、初登院。「新しい連立政権」を支持する議員の集い(憲
政記念館)
6日 細川総理大臣誕生(首班指名)
9日 細川内閣発足(連立政権)
12日 小池が総務政務次官就任
13日 広井忠男新潟第三支部長からの離党届け受理
18日 新しく代表代行職を設け、武田が就任。党組織および役員人事決定(荒
井聡代表幹事ほか)
9月 2日 さきがけ日本新党合同研修会
〜3日 (箱根一泊二日)
16日 参議院院内統一会派「日本新党・民主改革連合」結成届け出
17日 統一会派による「規制緩和ご意見FAX」設置
21日 臨時国会開会(細川首相所信表明)
25日 第二回ボランティア大会
26日 茨城県知事選挙投票日 橋本昌(推薦)当選。徳島県知事選挙投票日
円藤寿穂(推薦)当選
28日 日本新党愛知発足
10月 3日 日本新党京都発足
16日 阪神地区地方議員協議会結成
11月 5日 友好団体研修懇談会
6日 遠藤を追加公認。日本新党山口発足
11日 日本新党政治改革実現緊急街頭キャンペーン
12日 日本新政策センター主催税制改革シンポジウム
13日 連立与党政治改革キャンペーン
14日 第一回全国地方議会議員研修会
17日 緊急景気対策記者会見
18日 参議院統一会派記者発表(名称「日本・新生・改革連合」)。さきがけ
日本新党政治改革キャンペーン。政治改革法案衆院で可決
21日 宮城県知事選挙投票日、浅野史郎(推薦)当選
27日 日本新党長崎発足
28日 日本新党岡山発足
12月 5日 日本新党岐阜発足
7日 日本新政策センター主催のコメ部分開放問題シンポジウム(東条会館)
14日 コメの部分開放を閣議決定
17日 さきがけ日本新党「コメ部分輸入受け入れ」に対処するための緊急記者
発表
18日 日本新党福岡発足
20日 さきがけ日本新党・入札制度検討内容骨子について記者発表
1994年(平成6年)
1月 4日 日本新党・新党さきがけ新春街頭キャンペーン
21日 政治改革関連法案、参院で否決
24日 政治改革実現に関する緊急アピール
25日 日本新党・新党さきがけ政治改革キャンペーン
26日 女性のための政治スクール終了式。連立与党政治改革街頭キャンペーン
27日 民間政治臨調緊急総会において代表決意表明
29日 政治改革三法成立
31日 日本新党・新党さきがけ政治改革法成立御礼キャンペーン。江田五月、
阿部昭吾 統一会派さきがけ日本新党入り。菅直人、新党さきがけに入
党。星野朋一、石井一二、小暮山人、自民党を離党し新生党に入党統一
会派入り
2月 2日 日本新党東京発足
3日 国民福祉税構想発表
4日 参議院新会派「新緑風会」結成。日本新党群馬発足。国民福祉税構想撤
回
8日 高齢社会福祉ビジョン擁立へのシンポジウム開催。減税と税制改革に関
する連立与党代表者会議合意書
17日 日本新党議員懇談会
18日 細川総理党本部に里帰り。細川護熙代表を囲む議員職員懇談会
25日 ボランティア第一回勉強会
3月 8日 新人事(五役)正式決定
9日 新常任幹事会メンバー正式決定(松岡満寿男代表幹事ほか)
14日 日本新党HYOGO(兵庫)発足
26日 日本新党山形発足
27日 石川県知事選挙投票日 谷本正憲(推薦)当選
28日 日本新党・民社党の会合
31日 日本新党青森発足。参院予算委員会で細川の佐川疑惑を集中審議
4月 4日 日本新党神奈川発足
6日 日本新党の常任幹事会、さきがけとの合併を事実上撤回
7日 さきがけの武村も合併断念を表明
8日 細川護熙、総理大臣を辞任表明。統一会派「さきがけ日本新党」離脱、
新会派「改革」(日本新党、社民連 40名)を結成
10日 京都府知事選挙投票日 新巻禎一(推薦)当選
13日 日本新党有志議員グループの旗揚げ(荒井聡、中島章男、小沢鋭仁、五
十嵐ふみひこら)
15日 日本新党と民社党が勉強会を発足
17日 日本新党ちば発足
18日 中島、五十嵐、小沢が離党。党本部移転(東京都千代田区永田町2ー1
1ー2 星が丘ビル2階)
20日 中島、五十嵐、小沢が新会派「青雲」結成
25日 新会派「改革」解消「改新」結成
26日 社会党連立政権を離脱
27日 第2期女性のための政治スクール開校式(子供の城)
28日 寺沢が経済企画庁長官に就任
5月 7日 日本新党結党二周年
10日 政務次官人事発表。郵政政務次官−永井英慈、環境政務次官−鴨下一郎、
農林水産政務次官−木幡弘道、総務政務次官−石井紘基、法務政務次官
−牧野聖修。日本新党議員懇談会
11日 党の常任幹事など人事決定および党規則の一部改正
18日 民社党と日本新党 研究会「リフォーム21」結成
20日 荒井聡、枝野幸男、前原誠司、高見裕一が離党(民主の風へ)
22日 社民連解党、日本新党と合併
25日 羽田内閣総辞職
26日 日本新党と民社党が研修会を設置
6月 2日 日本新党と民社党が合同政策研修会
11日 第一回全国代表者会議(東京プリンスホテル)。党則改正、平成4・5
年の決算報告、平成6年の予算活動など承認。代表・副代表の人事決定
15日 衆院予算委、深山元秘書を証人喚問
16日 佐川問題に関連して細川の証人喚問が決定。細川の証人喚問に対する抗
議(談話)発表。細川の証人喚問に対する申し入れを行なう
21日 細川証人喚問(衆院予算委員会)
7月 4日 新生、公明、民社、日本新党が新党準備で一致
6日 旧連立与党、選挙協力で一致
7日 旧連立与党「改革推進委員会」発足。細川が最高顧問に
14日 日本新党常任幹事会「新・新党」を了承せず
18日 旧連立与党の若手が「責任ある政治を創る若手連合」発足。海江田が世
話人に
22日 武田学校開校(政策勉強のため)
25日 日本新党と民社党が連携強化
8月 1日 日本新党国会議員夏期研修会
〜3日 (軽井沢)
5日 海部俊樹、羽田孜、石田幸四郎、米沢隆、細川で五者会談
31日 日本新党常任幹事会で「年内に」新党結成を確認
9月 4日 「新・新党」の基本理念まとまる
5日 新党協議会発足
6日 新党協議会発足式
24日 女性のための政治スクール秋期研修会(国立婦人会館)
27日 海江田万里、石田、遠藤、牧野が「改革」「新党準備会」に不参加を決
定。寺沢、武田、小島「新党準備会」入り。「改革」187名で結成
28日 新党準備会発足式(キャピトル東急ホテル)衆参で225名。海江田ら
が「民主新党クラブ」結成届け出
30日 新党準備会役員人事発表。海江田、石井、遠藤、牧野が常任幹事を辞任
し、統一会派「改革」より離脱
10月30日 第一回日本新党党大会開催(東京プリンスホテル)
12月 1日 細川「新・新党」の党首選に不出馬を表明。石井離党
9日 日本新党解党。近藤離党
10日 新進党発足
2.解説
(1)結党
日本新党は後にその代表となる細川護熙が1992年の文芸春秋6月号に発表した「自由社会連合(仮称)」結党構想に共鳴した人達によって創られた。しかしその発表の時点では全く将来への見通しなどなく、まさにたった一人での結党宣言といってよかった。実際にその結党構想の記者発表の時、細川と関係のあった松下政経塾1)から手伝いにきたスタッフをあわせてたったの6人しかスタッフがいないという状況で、極めて早産といえる誕生であった。2)政治の閉塞感に絶望しかけていた人々からはそこそこ歓迎されたが、入党希望者の受け入れ体制すら整っておらず、入党希望者を断るという有様で、その後の参議院議員選挙の候補者選びも大変難航した。ともあれ、数ある党名候補のなかから最後に二つ残った「平成新党」と「日本新党」うちから、党名を「日本新党」と決定し、1992年5月22日政治団体として正式に日本新党が発足した。
(2)初の選挙(第16回参議院議員選挙)
結党から2ヵ月足らずで初の選挙を迎えることになった日本新党は、何事も急ピッチで準備をしなければならなかった。準備不足と他党との競合を避けるということで、比例の全国区のみに候補者を立てることになった日本新党だが3)、組織もなにもない新党であり、さらに新党への国民の期待度も全く読めない状況で、候補者の名簿作りは難航を極めた。候補者を公募するという作戦もとった。この公募には216名の応募がありその中から2名の公募候補者をだした。そうした状況で、7月5日に名簿登載順位を決定したが翌6日に名簿登載順位6位であった元プロテニスプレーヤーの佐藤直子が名簿登載を辞退するという事態が発生し、最後まで混乱が続く中、7月7日に比例代表の登載名簿を発表した。その名簿の特徴は元から国会議員であった人がいない、元官僚の候補者が少なく(2名)さらにその人達の順位が低かったということなどであった。その翌日の8日ら選挙戦にはいった。まだ、組織のしっかりしていなかった日本新党は40名程度のスタッフと6台の街宣車のみの選挙戦であった。選挙予想ではバラツキが大きかったものの2〜10議席獲得できるだろうと予想されていた。4)そして7月26日の投票日、日本新党は361万7235票を獲得し、比例区のミニ政党として過去最多の4議席を獲得し、細川、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎の4名が当選した。
(3)都議会議員選挙
1993年も2月に入ると、日本新党は都議会議員選挙の準備に入った。日本新党は4回に分けて公認候補22名、推薦候補10名を擁立した。自民党の大物代議士、金丸信の所得税法違反による逮捕によって追い風を受けた日本新党は、全く議員がいなかった状態から6月27日の選挙で公認候補20名、推薦候補7名の当選者をだし、一気に都議会において第三党に躍進した。5)しかし、選挙運動自体は各候補者に任せた部分が大きく、金のある候補者は元自民党の人々のアドバイスをうけ、自民式の金のかかる選挙をおこない、金のない候補者はそれなりの新党らしい選挙を行なうなど、ばらばらであった。ともあれ、都市部での新党に対する追い風の強さを強く感じさせる選挙結果となった。
(4)松崎哲久除名問
1993年6月18日、政治改革を公約にかかげながらそれを達成出来無かった宮沢内閣の不信任案が成立し衆議院が解散され、総選挙のための準備もラストスパートに入らなければならない時期になっていくのだが、そんな中、結党直後からのスタッフで、参議院の比例区の名簿の順位が5位であり名簿順位辞退要請を拒否した松崎哲久を除名するという事件が起こった。その理由は公式的には「党員としての適格に著しく欠けること」だとされているが、松崎が衆院選に立候補を検討しており、それに伴うトラブルがあったことが原因とも、事務局との確執が原因とも言われている。このことにより、細川、小池両氏の衆院選出馬に伴う繰り上げ当選者は小島慶三、山崎順子(円より子)の2名となったのだが、それを不満とした松崎が当選訴訟を提起し法廷闘争へと発展した。東京高裁の1994年11月29日の判決では松崎の主張が認められ円の当選が無効とされたが、日本新党側が上告した最高裁判決では(1995年5月25日)逆に円の当選は有効とされた。
(5)第44回衆議院議員選挙
宮沢内閣不信任案成立による衆議院の解散で、日本新党も初の衆院選に臨むこととなった。日本新党は参院選、都議選の時も行なっていたのだが、この選挙でも候補者の公募を行い、それが大変話題となった。第一次審査で147名の応募者のなかから15名に絞り、その後、約200名の党員の前で自己アピールを行なうという方法の第二次審査により8名に絞られた。日本新党としてはその8名とも擁立することは出来たのだが資金の問題で8名中6名が辞退し6)結局公募候補者は岩手一区の三浦和夫(45)と埼玉5区の枝野幸男(28)の2名となった。当時、資金が潤沢でなかった日本新党は公募候補者に対して資金援助をするようなことはなかった。そのことが公募候補者にとってネックとなった。つまり公募候補者に対する後押しは「日本新党」という名前だけであった。(実際には日本新党という名前だけで当選することがかなり容易になるような状況であったのだがそれは当時では分からないことであった)
日本新党は細川代表と縁のあるもの、昔からのスタッフなど掻き集めて最終的には候補者を91名擁立した。候補者の中には選挙の全くの素人の候補者も数多くいたが、党本部から特別な選挙指導はなくそれぞれの候補者に任せられていたようだ。選挙戦の最中には日本新党は幅広く支持を集めるため極めてファジーな戦略を採った。非自民のような立場を示したかと思うと、自民党との連携も有り得るというようなことも匂わせたりしていた。7)実際、細川は、自民党から後に連立を組むことになる新生党の面々が離党したとき「いかがわしい」との発言すらしている。8)この分かりやすい政治を目指したはずの日本新党のファジーな戦略が後の細川首班指名へと繋がることになる。ともあれ非自民の票を取り込んで(選挙結果は社会党の一人負け、自民は現有議席維持)、日本新党は公認候補35名を当選させ、後に公認した3名を加えて大きな発言権をもつことになる。
(6)さきがけとの接近
第44回衆議院議員選挙の選挙戦が進む中、日本新党は6月21日に自民党を離党した武村正義らが結成した新党さきがけと急速に接近していくことになる。日本新党は、松崎がいた頃は民社党との連携を模索していたのだが、その話は一先ず棚上げになった。この日本新党と新党さきがけの連携は元々は雑誌の対談で細川とすっかり意気投合した田中秀征が細川と武村の間を取り持って成立したものだった。そして選挙戦の途中で選挙後は日本新党は新党さきがけと統一会派を組むことを発表し、いずれは合併して一つの党になる予定であることも発表した。当時この両党は婚約したと称されるほど距離が近かった。自民、非自民、両勢力共に過半数に達しないという選挙後の状況の中でこの両党はキャスティングボートを握ることになった。9)そしてこの両党は、7月23日「政治改革を断行する政権」樹立を提唱した。
(7)細川内閣成立
選挙の結果、自民党が単独で過半数を獲得することが出来ずに自民、非自民、両勢力共に日本新党と新党さきがけの取り込みを狙って動きだした。ここで非自民勢力が日本新党とさきがけの示した案に乗る形となり、非自民連立政権の成立が濃厚となった。さきがけとしては離党したばかりであっただけに自民党との連立は抵抗が大きかったのだが、そのことも影響したものと思われる。10)ここで選挙戦の最中から一貫してファジーな態度を採り続けていたことが功を奏し、細川首相なら非自民勢力がすんなりとまとまれるということで一気に細川首相による連立政権へと動きだした。ファジーな態度の細川もついに決意を固めて、細川首相、武村官房長官、鳩山副官房長官(新党さきがけ)という統一会派さきがけ日本新党で首相官邸を固めた七党一会派による細川内閣が1993年8月9日に成立した。実に38年ぶりの政権交代であった。11)
(8)政治改革
細川内閣の課題は何といっても政治改革の断行であった。細川内閣は政治改革の中で一番の焦点となった選挙制度改革12)について、小選挙区250、比例区250という政府案を、一部の反発はありつつも、なんとかまとめ、1993年9月17日に国会へと提出した。しかし比例区を多くしないと社会党が生き残れないという主張も強く、まとまりはしたものの一枚岩では無かった。それに対して自民党案は小選挙区300、比例区171であった。いよいよ審議に入った政治改革法案であるが衆議院ではなんとか可決されたものの参議院では社会党から反対する議員がでて1994年1月21日に否決されてしまった。内閣存続の生命線である政治改革法案については、なんとしても成立させねばならず、さらに予算の関係で時間が無かった細川内閣は1月28日の深夜、土井衆院議長の仲介で細川と河野自民党総裁のトップ会談を行い、自民党の譲歩案を飲むかたちで1月29日なんとか政治改革法案を成立させた。その案は小選挙区300、比例区200の案であった。13)しかし不完全とはいえ長年の懸案であった政治改革法案を成立させたことで細川内閣の支持率は高く2月1日の朝日新聞の世論調査では71%であった。
(9)国民福祉税問題の余波
政治改革法案をなんとか成立させた細川政権はその高い支持率を頼みに、2月3日にいきなり7%の国民福祉税構想を発表した。14)しかしこのことは大きな問題を巻きおこした。元々、細川が総理大臣になってから党との関係が疎遠になっていたことを不満に思っていた議員たちが、党になんの連絡もなしにその構想を発表したことに怒り首相官邸に押し掛けると言う事態となった。さらに、さきがけも構想に反対の態度を示した。そのことに驚いたのか細川は2月4日にすぐに構想を撤回し、2月18日には党本部に9ヵ月ぶりにいき議員職員懇談会を開いた。この時、細川は党の人間との関係修復のために「官邸にも気軽に来てください」などかなり気を使った発言をしている。15)党との関係は収まりそうな気配を感じさせたが、さきがけとの関係はさらに悪化することとなった。
(10)さきがけとの乖離
国民福祉税構想によりさきがけとの距離の拡大が表面化したがそれ以前からその兆候はみえていた。統一会派は結成したものの、細川が総理になって以来、日本新党内には、武村官房長官、鳩山官房副長官、田中首相特別補佐とさきがけの優遇がひどすぎるのではないかとの不満がくすぶり、さらに連立政権内で唯一与党の中核にいた経験をもち連立政権のなかでの存在感、発言権が圧倒的に大きかった新生党の小沢一郎と武村の確執が囁かれ、細川が小沢よりの態度を示すようになったため、そのあとの合併構想は一向に話が進まなかった。そうしたところに細川と小沢が中心となった国民福祉税構想がでてきたのである。その後、細川は小沢の指示により1994年2月15日に武村を官房長官から外すための内閣改造を企図した。それは実現せず、3月2日に断念されたが、4月に入り日本新党、さきがけ、共に合併を断念、そのことにより日本新党内の親さきがけ派の離党が相次ぐことになる。
(11)佐川問題と細川退陣
日本新党とさきがけが合併を断念した頃、細川内閣も存続のピンチを迎えていた。細川の佐川急便からの一億円借金問題が国会で追及されたからである。この細川の一億円借金問題は日本新党が最初の参議院議員選挙に出馬したころから噂されていたことであるが、ここにきて細川の証人喚問が要求されることになってきた。16)そして、細川は4月8日にあっさりと退陣を表明してしまったのである。
(12)解党へ
日本新党は当初から、新党さきがけとの合併を予定していたが、選挙制度改革により小選挙区が誕生するのに伴い元々新人議員が多く地盤が弱い日本新党の議員では小選挙区を戦えないという懸念が出始め、もっと大きな規模での党の合併が目指される素地はあった。また、連立政権が出来た頃から連立与党の合併による新党作りの話が出るようになり始めた。日本新党の中には民社党との連携を先にすることを望む声もあり、新党準備会が発足した後にも、新・新党への参加が常任幹事会で了承されない程であったが、結局は新・新党の結成に参加することになった。そして1994年10月30日の第一回の党大会でそれが了承され、第一回の党大会が解党大会となった。こうして日本新党は、活動の基盤を確立することが出来ず、風に乗って誕生し、風のように時代を駆け抜けて、歴史の表舞台から姿を消した。
注
(1)細川は松下政経塾の評議員であった。
(2)候補者候補のリストすらしっかりしたものがなかった。中田宏「新党の挑戦」ぱる出版、1994年、57頁。
(3)東京の選挙区にはシンボル的に候補者を立てようという動きもあったが結局見送られた。同上、56−57頁。
(4)同上、107頁〜。
(5)1993年1月17日の新潟県白根市の市長選以来、地方選挙では連戦連勝であり躍進の素地はあった。
(6)松崎哲久「時代にとってわれわれにとって日本新党とは何であったのか」1995年、238−240頁。
(7)当時、日本新党とさきがけは自民か非自民かは本質ではないという考え方をとっていたが、国民にとっては、それがかなり重要な問題であった。
(8)朝日新聞、1993年6月25日。
(9)具体的な議席数は自民223、社会70、新生55、公明51、日本新35、民社15、共産15、さきがけ13、社民連4、無所属30。
(10)武村は経世会への反発があったと述べている。
(11)細川の強い希望で社民連の江田五月が日本新党枠で入閣したため細川以外の日本新党からの入閣はゼロであった。
(12)政治改革については選挙制度改革以外はあまり議論が表にでてこなかった。
(13)結局、自民党の譲歩案をのんだため小選挙区の数が多くなり社会党には皮肉な結果となった。
(14)3%の消費税を廃止して導入される予定であったが、7%という数字は根拠がなく細川自身「腰だめの数字」と述べている。
(15)鮫島宗明「殿様と36人のサムライ」実業之日本社、1994年、68−69頁。
(16)佐川清からの借金であったのだが書類に不審な点があったこと、借金の利子を政治献金として処理していたこと等が問題となった。既存の政治家を批判し、クリーンなイメージが強かった細川には大きな打撃であった。同上、96−97頁。
参考文献・資料
森田実「政権交代」時事通信社、1993年
朝日新聞政治部「連立政権回り舞台」、1993年
朝日新聞政治部「政界再編」、1994年
中田宏「新党の挑戦」パル出版、1994年
鮫島宗明「殿様と36人のサムライ」実業之日本社、1994年
松崎哲久「時代にとってそしてわれわれにとって日本新党とは何であったか」フリープレスサービス、1995年
朝日新聞
日本経済新聞
日本新党機関誌「コムネット」
http://politics.j.u-tokyo.ac.jp/lab/edu/seminar/study/1st-semi/jokyo/n-shin.htm
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