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(回答先: プロテスタントとの闘い 投稿者 隣人 日時 2006 年 11 月 29 日 12:26:00)
イエズス会はヨーロッパでの慣習に従って東洋でも、まず支配者を改宗させて、それからその臣民を
改宗させることを目指しました。そしてこの目標を達成するため、あらゆる者に対してあらゆるものに
なるようにというロヨラの命令の限界にまで迫りました。17世紀にインドで活躍したイエズス会の宣
教師ロベルト・デ・ノービリは、支配者階級に伝道するため、高いカーストであるバラモンのような
生活を送りました。そして、仲間のバラモンの感情を害さないよう、低いカーストである不可触賤民
に対しては聖体拝領のパンを棒を使って渡しました。
マテオ・リッチは中国の宮廷の有力者になりました。それは主に、数学者また天文学者としての才能が
あったからです。彼は自分の宗教的信条を他の人に伝えませんでした。明朝において彼の後を継いだの
はイエズス会士ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルです。彼は火砲鋳造工場を設けたり、中国軍が
銃(それらはカトリックの“聖人”にちなんだ名前を付けられた)を扱えるよう訓練したりしました。
イエズス会は改宗者を得るために、中国人のカトリック教徒が先祖崇拝を続けることを許しました。
その決定は論議を呼び、最終的には教皇によって退けられました。こうして融通を利かせたにもかかわ
らず、インドでも中国でも支配者を納得させることはできませんでした。
南米では植民地化を進めるような手法が試みられました。イエズス会は内陸のまだ植民地化されていな
い地域に自治入植地を設けました。そこではイエズス会の宣教師がグアラニーインディオを支配してい
たも同然でした。その代わりに彼らは、インディオに農業、音楽、宗教を教えました。これらの入植地は、
最盛期には10万人の原住民を抱えていましたが、最終的にポルトガルやスペインの商業上の権益と対立
するようになり、崩壊しました。イエズス会は3万人のインディオから成る軍隊を養成し、少なくとも
1度ポルトガルと激しく戦いましたが、1766年に入植地は滅ぼされ、イエズス会士は追放されました。
幾世紀にもわたって多くのイエズス会士がカトリックの音信を遠く広く伝えるため英雄的な犠牲を払い
ました。苦労して、そのために痛ましい仕方で殉教した者もいます。支配者から活動を禁止されるまで
はある程度の成功を収めていた日本では特にそうでした。
自己犠牲の精神と熱意を抱いていたにもかかわらず、世界を改宗させようとするイエズス会の努力は、
主に彼ら自身の抜け目のない方法がもとで挫折しました。