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(回答先: 元毎日新聞記者 西山太吉(2)―「朝日新聞」be on Sunday「逆風満帆」 投稿者 天木ファン 日時 2006 年 8 月 12 日 19:47:41)
「逆風満帆」
元毎日新聞記者 西山太吉(3)
■妻が信じた「その日」
妻(71)の言葉はずっと、聞き流していた。
「いつか、あなたが正しかったと裏付けるものがアメリカから出てくるわよ」
逮捕直後から、その日はきっと来る、と妻は予言のように繰り返した。
望みが砕かれれば、失意を重ねることになる。西山太吉(74)は耳を貸さなかった。
00年5月29日。
朝日新聞朝刊が報じた米公文書は、琉球大教授の我部政明が米国立公文書館から入手した。陸軍省参謀部軍事史課による「琉球諸島の民政史」ファイル。外交とは直接関係のない資料に、密約を裏付ける記述はあった。
逮捕から28年。それは、秘密指定が解除され、米公文書が公開されるために必要な年月でもあった。
「あんたが言った通りだったな」
妻の前で、西山はぼそっとつぶやいた。息子たちが大学を卒業した後、北九州で再び一緒に暮らしていた。
外へ出ると、行きかう人々の顔が目に入った。まるで、目の前を覆っていた膜に穴が開いたようだった。
「笑みを浮かべたり、楽しそうに話していたり。それまで他人の表情なんて気にしたことはなかった」
長い間、自分の殻のなかに逃げ込んでいた。
しかし翌日、河野洋平外相が「密約はない」と否定。米政府の発表と同義であるはずの公文書を一蹴(いっしゅう)した。
河野は75年、二審で弁護側証人に立ち、メディアの役割の重要性を訴えていた。それでも、個人の信条が立場を超えることはなかった。
記事が出てまもなく、取材の申し込みがジャーナリストの本多勝一からあった。西山は事件後、初めて沈黙を破った。週刊誌に載ったインタビュー記事は思いがけない反響を呼んだ。
直後に、山崎と名乗る女性から電話が入った。同姓の元同僚だと思い込み、最近何しとるんや、とたずねた。
「私は作家の山崎豊子よ。『大地の子』や『沈まぬ太陽』を読んでないの」
「読んじゃおらんよ」
実際、事件後に小説を手にすることはなかった。自分の身に起きたことの重さと比べれば、どれも薄っぺらく、きれいごとにすぎないように思えてならなかった。
「あなたの人権は絶対に守りますから」
連載にしたいという山崎の申し出を電話口で了承した。
いつしか、人に会うことへの抵抗も薄れていった。
ある日、東京へ向かった。飛行機嫌いのため、新幹線で5時間。大手町の読売新聞本社に、同グループ会長の渡辺恒雄を訪ねた。
渡辺は一審で弁護側証人として法廷に立ち、自著のなかで西山記者の活躍にも触れている。盟友だった。
山崎による連載を知った渡辺は、主人公はだれか、とたずねた。
「もちろん、俺(おれ)さ」
会長室での歓談は2時間を超えた。
■古巣で政府批判再び
02年6月。興味もない日韓W杯が連日、ブラウン管に流れていた。ある晩、米ワシントン在勤のTBS記者からファクスが送られてきた。沖縄返還後に作成された米公文書だった。
〈日本政府が神経をとがらせているのは400万ドルという数字と、この問題に関する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉
決定的な証拠だった。
吐きだされてくる感熱紙を眺めながら、西山は思った。ああ、アメリカからもファクスは届くのか。
W杯決勝の2日前。この公文書について報じた毎日新聞に西山の談話が載った。
「日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ」
追われるように去った古巣の紙上で政府を批判した。
その年の暮れ、毎日新聞労組主催のシンポジウムに招かれた。質疑応答で、聴衆のひとりから問いかけられた。
「裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」
確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。
「いま、検討中です」
実際は違った。事件から30年近くがすぎ、「時効」のようなものがあるのではないかと、あきらめにも似た思いにとらわれていた。
8カ月後、西山のもとに手紙が届いた。シンポジウムで質問した男性からだった。
〈国と対等の立場で、闘いの場を持ちませんか〉
男性は弁護士だった。=敬称略
(諸永裕司)
http://www.be.asahi.com/20060729/W14/20060720TTOH0001A.html