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(回答先: 元毎日新聞記者 西山太吉(1)―「朝日新聞」be on Sunday「逆風満帆」 投稿者 天木ファン 日時 2006 年 8 月 12 日 19:44:49)
「逆風満帆」
元毎日新聞記者 西山太吉(2)
■死の影、競艇、ネオン街
「国会や裁判で『記憶にない』『忘れた』と繰り返していたから、本当に忘れてしまったんです」
今年2月、密約を初めて認めた外務省元アメリカ局長の吉野文六(87)の言葉を新聞で目にした。
西山太吉(74)はうなった。怒りよりも、妙な納得があった。もちろん、そのために暗転した日々を忘れることはできない。
逮捕後、自宅を引き払い、賃貸アパートなどを転々とした。報道陣が待ち受けるため、昼間は外出できない。夜が更けるのを待って散歩に出かけた。
ある日、気がつくと薬局に足が向いていた。睡眠薬を探していた。ただ楽になりたかった。歩きながら、でも、と問いかけるもうひとりの自分がいた。
「このまま死んだら、自分を否定し、敗北を認めることになる。権力を喜ばせるだけじゃないか」
結局、薬を口にすることはなかった。
裁判では、女性事務官の証言に一切反論しない方針を立てた。取材源を守れなかった以上、やむをない。それでも一審は無罪。女性事務官は有罪だった。
西山は会社を辞め、ペンを折る。「ほかに責任のとりようがなかった」。43歳の働き盛りだった。
台湾からの輸入で稼ぎ、「九州のバナナ王」と呼ばれた父が商売でつまずき、株に手を出して転落したのも40代半ばだった。
「やっぱり血は争えんのかねえ」
そんな軽口をたたく余裕は当時はなかった。
妻子を東京に残し、北九州の実家に戻った。まもなく母親が死去。ひとりになった。
空っぽになった胸の内を埋めるように、庭一面にチューリップを植えた。欠かさず水をやると、鮮やかな花が咲いた。植物は裏切らなかった。
父が興し、親族が継いだ青果会社に食いぶちを得て、営業の責任者として全国の産地を回った。それまで、だれかに頭を下げることを知らなかった。
慶応大学では全塾自治委員長。同大学院の修士論文では、ベトナムの革命指導者ホーチミンを取り上げた。新聞記者は、幼い頃からのあこがれだった。
毎日新聞の政治部では自民党と外務省を担当した。日韓交渉をはじめ、米原潜の日本への初寄港など特ダネを飛ばした。官房長官だった大平正芳らに食い込み、読売新聞の渡辺恒雄とは毎週のように酒を飲んだ。
それも遠い記憶となった。
逮捕から6年後の78年、二審で逆転した有罪の判決が最高裁で確定した。
取材手法に問われるべき点があったとしても、国民を欺いて密約を結んだ罪の重さとは比べものにならない。なぜ、日本政府の責任がまったく問われないのか。
西山は競艇場に通いつめた。群衆に紛れ、水しぶきを上げて競り合うボートを眺めた。震えるような特ダネ競争にはもう戻れない。夜はネオン街をさまよった。
「ただ呼吸してるだけ。生きる屍(しかばね)のようだった」
■退社26年、公文書に光
逮捕前年の71年。ベトナム戦争をめぐる米国防総省の内部文書を掲載した米紙をめぐる裁判で、米連邦最高裁判所は、新聞の発行差し止めを求めた政府を退けていた。
〈報道は国民に奉仕するものであり、国家に尽くすものではない〉
あらためて言論の自由の価値が認められた。
しかし、それは海の向こうのできごとだった。
60歳で会社を退くと、やるべきことが見あたらない。ポリ袋を手に、自宅周辺のゴミを1時間ほどかけて拾って歩いた。毎朝の清掃が日課になった。誰かのために役立っているという「ちっちゃな存在理由」の確認。切れかけた糸でかろうじて社会とつながっていた。
定年退職から9年。転機は突然、訪れた。
00年5月29日、清掃を終えて自宅に戻ると、しばらくして電話が鳴った。毎日新聞の記者からだった。古巣との接触は最高裁で有罪が決まって以来、初めてだった。
「きょうの朝日にやられました」
400万ドルの土地原状回復補償費を日本側が肩代わりしたことを裏付ける米公文書が見つかった、と1面で報じているという。西山はあわてて新聞販売所に走った。
新聞記者を辞めて26年がすぎようとしていた。=敬称略
(諸永裕司)
http://www.be.asahi.com/20060722/W14/20060713TTOH0001A.html