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(回答先: 残念ながら、この例は適当とは思えません。 投稿者 考察者K 日時 2006 年 4 月 19 日 06:58:36)
詭弁でこられたから詭弁で応じるけど、俺が刺したコンパスの針を、
Kさんが自分の任意のところに刺しかえれば、当然円は重ならない。
と、こう答えれば、次にKさんがどう切り返すか、俺には予想できる。
何度も言ってるけど、基本的に俺は言葉を信じない。
どんなに見事に構築された論理であっても、厳密には詭弁だったりする。
議論がめったに噛み合わないのは、皆が皆、言語至上主義者だからだ。
言葉は概念であり、相互に概念が異なれば、最初から話にならない。
この場合であれば、「どこに針を刺すべきか」で喧々諤々の不毛な議論になる。
そういうのは疲れるし、「言葉遊び」にはいい加減飽きた。
言葉は積み木みたいなもので、並べ変えればどうとでもなる。
では、どうするのがいいのか?
俺は答えはもってないけど、人が何を言わんとしているのかを理解するには、
目ではなく心を使えばいい。
「この人は、何を言わんとしているのか」
「この人の文章には、どんな含意がこめられているのか」
そういったことを、自身の内にある「内的規範」という文法を使い、解読する。
人はどうしてるか知らんが、俺はそうしてる。
議論は相手をやりこめるものではなく、相手と会話を交わすことで、
自身の内にある文法書に次々と書き込んでいくことではないのかな?
そうして書き込まれたものが教養であり、知性という栄養になる。
俺はそう思っている。
何が正しく、何が間違っているのかは、各々の内的規範にて判断すればいい。
だから「正しい」とか「間違っている」というの自身のは外部にあることではなく、
常に自身の内にある。
何が正しく、何が間違っているかは、他人や時代によるばかりではなく、
己の成長の段階においても変わってくる。
だから学ぶことは楽しく、飽きることもない。
これが「二元論」に対して、「聖なる二分法」という考え方。
・・・
ま、こんなところで勘弁してください(笑)
ニートの件については、また色々話したいね。
Kさんとも、姫さんとも。
今日のところは、もう寝ますので。
お互い、ネットのやりすぎには気をつけませう(爆)
じゃ、おやすみなさい。o○