★阿修羅♪ > 地域10 > 150.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 【日経・神奈川】スピード重視でひずみ=横浜の実像=第4部 躓く中田改革・中 投稿者 どうして? 日時 2006 年 8 月 11 日 11:53:50)
躓く中田改革全3回のうちの3回目(最終回)です。WEBには掲載されていない
ようなので、全文転載いたします。
「反骨」市長の権威増大・存在感への自覚薄く
(転載はじめ)
八日、かつての側近の略式起訴を受けて夏休み返上で緊急会見に臨んだ横浜市長
中田宏。「市民に、議会に、職員に……」と、深々と頭を下げた。改革者として
名を上げた中田は「本人が自分の大きさに気づいていない」(有力市議)ほど
周囲が認める存在となった。その挫折を象徴するような光景。中田は今、大きな
転機を迎えている。
一九八九年初夏。東京都杉並区のある選挙事務所で、ラグビージャージーを着て
動き回る若者の姿があった。わずか二カ月前に青山学院大学を卒業、松下政経塾
に入ったばかりの中田である。
中田は塾の先輩にあたる現杉並区長の山田宏が出馬した東京都議選をボランティアで
手伝っていた。ジャージーは山田が学生時代、ラグビー部だったことにちなんだものだ。中田は九二年の日本新党立ち上げにも参加。「まだ塾生だったが、新党の活動に
どっぷりつかっていた」(区長の山田)
新党ブームに乗り、翌年の衆院選で二十八歳で当選、三期務めた後の横浜市長選で
圧倒的有利とされた現職を相手に劇的な勝利を収めた。
とんとん拍子に階段を駆け上がり、改革派政治家と称されるまでになった。だが、
その原点は自身が「偏差値三十八だった」(自著『なせば成る』)と言う学生時代
の落ちこぼれ体験にある。
一般的なサラリーマン家庭に生まれた中田はリトルリーグに熱中する野球少年だった。
空手道部に所属した神奈川県立霧が丘高校時代は、全国模試の成績が五千人中で
下から七番目だったという。学生時代を知る友人は「とても今の姿を想像できない」
と述懐する。
「勝ち続けてきた人間だけが社会を動かすのはおかしい」。
その反骨精神が中田を突き動かしてきた。浪人を経て大学へ。そして政経塾に入り、
社会を動かすべく政治家を志した。
七月二十七日夜、横浜中華街。ある料理店のテーブルを神奈川県知事松沢成文、
宮城県知事村井嘉浩ら政経塾出身の首長が囲んだ。
会合の呼びかけ人は先輩にあたる山田。この日は中田が幹事を務めた。
「うちは財源が乏しいから……」「例の件はその後どうなったの?」強固な塾生の
ネットワーク。旧交を温めると同時に互いの自治体運営の苦労話で盛り上がった。
ただ相次ぐ不祥事などで矢面に立たされた中田を気遣う声はあっても敢然と意見する
声は少なかった。「かつてなら誰でも遠慮なくアドバイスできたのだろうが……」。
ある出席者はそう話す。「テレビ出演などで目立つ中田の存在が大きくなり過ぎ、
もの申しにくくなった」とも。
劣等性だった高校時代までの一変し、政経塾以降は「落選もなく、日の当たる道
だけを歩んできた」(当時の塾頭、上田晃)。もはや周囲の目には、自身がかつて
嫌っていたはずの権威にすら映る。
中田は「なぜ、これほどまでに言われるのか」と、逆風の中で批判を繰り返す
マスコミにいら立ちを隠せない。権威への反骨心を行動力の源泉としてきた中田。
自らがその権威となった自覚はなお乏しい。市職員に意識改革を呼び掛けてきた
中田自身が脱皮を迫られている。=敬称略
(転載おわり)
2006年(平成18年)8月11日日経・神奈川/27面神奈川・首都圏経済より
阿修羅関連スレ
松下政経塾と「中田人脈」の研究 (1)
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/918.html