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最近、小・中学生のいじめによる自殺が連続し、世間を悲しませておるが、本当に痛ましいとしか言いようのない現象じゃて。
しかしながら、こうした現象の背景として社会、教育委員会、学校などのせいにして親は単に被害者のような論調じゃが、もちろん親の悲しみに同情の念は禁じえんが、残念ながら親の責任も重いものがあるんじゃないかのう。当然いじめた側の親の責任も重いわさ。
それにしても考えさせられるのは、日本古来から続いてきた思想、文化の根本にあった、先祖、あの世、来世、輪廻転生、因果応報などの目に見えない世界の存在を、受け入れる心が消滅しつつあることじゃて。
「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かられる」、「ご先祖様に顔向けできないことはするな」、「誰が見ていなくても、お天道さんが見ているから、悪いことをしていかん」、「悪いことをすると地獄に落ちる」「人を苦しめれば罰があたる」「人を呪わば穴二つ」「情けは人のためならず」「一日一善、徳を積むことが人生を豊かにする」「一寸の虫にも五分の魂」「子は親の宝」「命は神様からのいただきもの、身体は親からのいただきもの」などなど、ワシの幼い頃は、こんな言葉が誰言うとなしに、日常茶飯事にとびかっておったわな。
漠然とながら霊界があり、先祖があの世から自分を見守っている。悪いことをすれば血の池地獄や針の山が待っているといった意識は、自然と行動に自己規制が生じるし、善行して人から感謝されれば、先祖が喜ぶと思えて何か誇らしい気持ちになったもんじゃわな。これらの言葉の中には多少脅しの要素などもあるがじゃ、戒律的な低レベルな精神性から、人として生きるべき道を示唆しておるように思えてならんわさ。
例えばじゃが、いじめれば相手が悲しむ。悲しませることは悪いことだから自分の死後が怖くて簡単にはいじめはできない。逆に、お世話して喜ばれれば良いことが返ってくるのだからと考えれば、善行、徳積みの方向へ意識はシフトして行く。これが日本人の思想の根底にあったんじゃと思うぞ。死もそうじゃて、死んだら親も先祖も悲しむだろう。自殺すれば地獄行きになるかもしれないなどは、簡単な現実逃避の方法としては考えなくなるはずじゃろう。
こうして考えれば、いじめられた子、いじめをした子の親が、まず第一に、子供へどれほどの愛を伝えておったが問われるわのう。「どれだけ大切に想っているか」「どれほどかけがえのないお前なのか」「親の宝物としての存在」
その次に命の大切さじゃわな。「親が自分の命を犠牲にしても子供の命は守る」この気構えや命に関する親子の対話がなされていたか。
あるいは、子供や先祖に対して、日頃から徳積みができていたかじゃわな。霊界に徳積み貯金が沢山あって、神や先祖が動けば、死んでならん子はどうやっても死ねんのが摂理なんじゃて。実はココが決定的じゃわな。ちょっと厳しい発言かも知れんがのう。(語るも辛いわさ)
それから、先祖、あの世、来世、輪廻転生、因果応報などの会話があったんじゃろかと思うわな。かつてはどの家にも仏壇があり、先祖を敬い、仏壇など神仏に手を合わせる習慣があったので、知らず知らず目に見えない世界を意識し、そこから子供心ながら、いろいろ考えを膨らませておったはずじゃて。
こうした精神的志向が日本国民の心の中から消滅しつつあり、その結果、日本文化の根底にあった「思いやり」「いたわり」「和合」「謙虚」「善行、徳積みの心」「命の尊厳」も見えなくなってしまったと思えてならんわさ。
じゃによって、そこから生じる人生の価値や目的、善悪の基準が揺らぎ、境目が不明瞭となれば、注意もしづらいし、自信も無くなるわな。そうすればやったもん勝ちともなるわな。自己主張ばかりにもなるぞ。人が悲しもうと合法であればOKか!?。これを本末転倒と言うわのう。
今の日本には、倫理を大切にする心や、倫理の背景にある神仏、先祖への想いが欠如した姿、社会としか感じられんて。これは文化の崩壊と言わずに、何と言ったら良いんじゃろかのう。
ワシ自身、学校の勉強を深めるに伴って、いつの間にか霊界や先祖などの意識が薄れて行き、それらの類を「迷信」「情緒的な考え方」として拒否的な態度じゃった。とは言え、先祖、あの世、来世、因果応報などの言葉のイメージは心に染み込んでおったようで、「死ねば終わり」「この世は弱肉強食」とは単純に考えとらんかったけどな。
そして、人生の最も勢いのある30代前半から普通の人生とは異なった道に迷い込み、先祖、霊界、神界の実在を体験してしまった今になって思えば、日本古来から伝承されてきた「人として生きる道」「心の道」「生き様のあり方」などが、本当に素晴らしいものだった。日本人の精神世界は極めて高かった事実に気がついたわけなんじゃて。
アホじゃったもんじゃから随分遠回りしたけどな。そして、一時は阿呆気た話、迷信話と切り捨ててきた言葉の端々が、実は、金科玉条の輝く教訓じゃったと、涙して亡き父母にお詫びしたい気持ちじゃさ。
西郷隆盛の遺訓といわれておる言葉に「文明とは道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うに非ず」とあるが、この場合文明を文化に置き換えても良いとワシは思うが、金や物質的贅沢に価値があるんじゃなく、人が人として歩むべき道を高め、精神性の高さを求める道をこそ賞賛する社会にせなあかんぞ。
隆盛公は明治維新の頃から、すでに日本文化崩壊の予兆を感じておったんじゃろうのう。
そして戦後の教育が決定的じゃった。受験戦争も拍車をかけたわさ。
死んだら終わりじゃないぞ。どんな人ともいずれ霊界で再会するぞ。いじめたり苦しめたりすれば、その人から厳しく叱られるぞ。あの世では金なんぞ糞にもならんぞ、徳だけが自分を救うモノじゃぞ。目に見えない世界を大切にする精神性へ回帰せな、日本はあかんじゃろうて。
ついでに言っとくが、この精神性を取り戻せなければ、いずれ居流皆亭らに蹂躙されるじゃろうて。
最後に、亡くなられた子供さんは、霊界でもっと寂しい世界に行ってると思われるでな、背一杯、真心込めて愛を込めて弔って欲しいもんじゃて。
そして、いじめた子は改心し、亡くなった子のために終生徳を届けて欲しいと願うわのう。