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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu131.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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エリート教育が欠落している現状を何とかしなければならない。
エリート教育の核心は、古典・歴史教育と軍事教育である。
2006年11月5日 日曜日
◆第89回 東大生にも蔓延!履修漏れ問題 「ゆとり教育」が国を滅ぼす 立花隆
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/061101_yutori/index.html
(前略)
◆「公明党って与党なんですか?」
最近、原田武夫「タイゾー化する子供たち」(光文社)という本を読んでいたら、こんな驚くべきエピソードが紹介されていた。
著者の原田氏は、東大法学部卒業後外務官僚になり、在ドイツ日本大使館、外務省西欧第一課、北東アジア課などを経て、独立系シンクタンクを設立したという人物で、今年の4月から東大教養学部で非常勤講師として、「実践的現代日本政治経済論」を講じている。教養学部での実地の体験談として、こんなことを書いている。
ある日、原田氏は今年4月23日に行われた千葉7区の衆院選補欠選挙(自民党候補が民主党候補に敗れた)を例にとって、そのときその選挙区で、どのような政治意識の変動があったのかを分析してみせた。
その日の授業が終わったところで、1人の女子学生が教壇に寄ってきて、こんな質問をした。
「さっき、先生は今の与党が自民党と公明党で、連立政権だって言いましたよね。今日聞くまで、そのことを知らなかったのですが、政治のキソを勉強するために適当な本ってありますか?」
いうまでもなく、現在の政権が、自民党と公明党の連立政権であることなど、日本人なら誰でも知っている社会常識に属すると思っていた原田氏は唖然とする。
しかし、彼女はもぐりでも何でもなく、正真正銘の東大生なのである。事情を聞いてみると、彼女は高校で理系の進学組に属していた。社会は1科目ですむため、受験科目は必死で勉強したが、社会科の常識部分をほとんど欠如させたまま大学生になってしまった。そういうことが現実にありうるのだと知って原田氏はショックを受ける。そして、
「この子が何も知らないまま『東大卒』として社会に出ていってしまったら大変なことになる」と身震いしたという。(後略)
◆<江戸時代と現代日本(続)>太田述正コラム#1482(2006.11.2)
http://www.ohtan.net/column/200611/20061102.html#1
2 江戸時代の教育
(1)庶民教育
まず、庶民教育について、石川英輔「大江戸生活事情」(講談社文庫)から、関連箇所をピックアップしてみましょう。
江戸時代の初等教育は、7、8歳から11、12歳くらいの間に寺子屋(江戸では手習い師匠)で読み書き算盤を習うというものでした(271頁)。
江戸では、就学率は80%にのぼりました。農村では良く分かりませんが、20%程度であったとも考えられています(306〜307頁)。
ちなみに、1838年から始まる英国のビクトリア時代の大都市の自動就学率はわずか20〜25%程度でしたし、ロシアでは1910年代になっても、最先進地方のモスクワでさえ、就学率は20%でした(280頁)。
なお、江戸では、女子教育の方が男子教育よりもレベルが高かったといいます。男は職業教育が優先されたのに対し、女子には読み書き算盤だけでなく、芸事や、更に高い教養を身につけさせた上で、総仕上げとして武士の過程に奉公させ、本格的な行儀作法や教養を身につけさせたからです(282〜283頁)。
勉強好きでより高度の学問をしたい人には、幕府の昌平坂学問所があり、庶民でも自由に聴講できる部門を設けられていました。そのほか、民間の学者が経営するさまざまな学問の私塾もあり、和算を教える塾までありました(271頁)。
当時は、庶民の教育は、義務教育ではありませんでしたし、幕府や藩によってカリキュラムが定められたり、教科書が検定されたり、教員免許が与えられたりすることもありませんでした。また、当然のことながら、何々学校卒業という資格も肩書きもなく、その必要もありませんでした。(270頁)
(2)武士教育
次に武士(男子)の教育は義務教育であり、幕府には昌平坂学問所、各藩には藩校があって、7-8歳でこれらの学校に入学して、一般に、四書五経の素読と習字を中心としてまず文を習い、のち武芸を学び、14-15歳から20歳くらいで卒業しました。
このような教育を受けた武士が、社会のリーダーとして、その重責を自覚して身を正し、庶民の師表となり、庶民を育み慈んだことは少し以前に(コラム#1476で)申し上げたとおりです。
(3)まとめ
以上をまとめると、江戸時代の教育は、庶民教育と武士教育(エリート教育)に大きく分かれており、前者は義務教育ではなく、しかも現在の小学校の期間程度で内容は読み書きそろばん程度であったのに対し、後者は義務教育であり、現在の小中学校ないし小中学校高校短大の期間程度で内容は読み書き・儒学・武芸、つまりは文武両道であったわけです。また、庶民の修学意欲は極めて高かったわけです。
総じて、江戸時代の教育制度は、極めて安上がりでしかも効果的であったと言えそうです。
3 日本の現在の教育
(1)始めに
明治維新後、政府は、欧米の教育制度を参考にしつつ、庶民とエリートの子弟の垣根をなくし、全国民の子弟を対象とする義務教育制度を導入するとともに、高等教育において、旧制高校(全寮制)・大学と陸士・海兵(全寮制)・陸海軍大学という、文と武の二系列からなるエリート高等教育制度を設けました。
このエリート教育における文武両エリートの分断は極めて不適切であった、と私が考えていることは、ご承知の方も少なくないと思います。
また、戦後に関しては、占領軍の介入もあって、日本がエリート教育を廃棄してしまったことが、現在までずっと尾を引いている、と私は考えていることをご承知の方もいらっしゃるでしょう。
(2)江戸時代の教育から何を学ぶべきか
第一に学ぶべきことは、エリート教育の重要性です。
エリート教育が欠落している現状を何とかしなければならない、ということです。
また、エリート教育の核心は、儒学と武芸、すなわち、古典・歴史教育と軍事教育である、ということです。
第二に学ぶべきことは、基礎的共通教育(学校教育)の内容は、読み書き算盤に相当する国語と算数を中心とすべきであり、それで足りる、ということです。
第三に学ぶべきことは、稽古事を含めた基礎的教育全般について、政府はカネは出しても口は極力さしはさまないようにすべきであるし、また、塾や師範はもとより、学校も自由に父兄が選べるようにすべきだ、ということです。
(私のコメント)
今朝の報道番組でも高校生の履修不足問題が話し合われていましたが、責任の所在が不明確であり、文部省から教育委員会から校長に至るまで責任をとろうと言う気配がない。最終的には進学教育を望んだ生徒や父兄にあるかのような結論になってしまう。
大学の受験科目は英語、数学、国語の三教科が多くて、理科や社会がスポイルされてしまう。その結果が立花隆氏の記事にあるような、公明党が連立政権与党である事も知らない東大生がいた事につながるのですが、すなわち、現在の東大はエリートを要請する教育機関ではないのだ。
太田氏の記事にあるように本来のエリート教育は古典と歴史教育にあるのですが、現在の大学受験には古典も歴史も受験科目から外されている。大学入学してからも古典や歴史を学ぶ学生は学部が限られるし、高校でも歴史を履修しなかった大学生の歴史知識は小中学生並ということになる。
このような一流大学を出たエリートが海外に赴任などしても、日本の歴史や世界の歴史をほとんど知らないのだから、現地のエリート達との会話もままならないだろう。いくら英語が達者でも日本のことをほとんど知らないのでは話にならない。特に外務省の役人達は海外でパーティーざんまいで日本の恥を晒しているのだろう。
立花隆氏の東大生の学力低下の話は以前から話題になりましたが、一般社会常識すら知らない東大生が社会に出て、一流企業や中央官庁のエリート役人になっているから不祥事が続出するのだろう。おそらく東洋西洋の古典教育などほとんど受けていないはずだ。
実社会に出て学校教育が直接役に立つのは学校の先生になる人ぐらいで、一番役に立つのは読み書きそろばんといった基礎のレベルだ。むしろ学校のクラブ活動でしてきたことなどの方が役に立つ事が多い。ところが東大を出たような現代の秀才は受験教育一本やりで、いわば社会ではあまり役に立たない学習科目を集中的にそれだけをやってきた人が多い。
たしかにペーパーテストなどでは優秀な成績を示すが、問題解決能力といった能力は身に付けてはいない。前例のあることなら前例に従ってやれば解決が出来るが、前例も無くどれが正解か分からない問題が出て来た時には東大卒の秀才でも教科書がないから役に立たない。確かに記憶力や理解力はあるが、問題解決能力が無いから問題の先送りばかりするようになる。
本当のエリートとは責任を取る能力のある人物を言うのであり、最初に書いたような履修不足の問題が起きても文部官僚や教育委員会のエリート達は責任を取らず、責任を回避する能力だけは上手なようだ。
正解の無い難問を突きつけられた時に役に立つのが古典であり、古典から考えを積み上げていかなければ正解が見えない。あるいは昔からの歴史の出来事からも問題の正解が見出せる事もある。だから現代の高校で履修科目から歴史や古文漢文などの科目が外されている事は、エリート教育からいかにかけ離れているかを物語るものだ。