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(回答先: 遠距離通勤、労働者の賃金など、Kotetsu さん、如往さんへ 投稿者 東京音頭 日時 2006 年 10 月 22 日 22:50:36)
東京音頭さん、レスを有り難うございます。
>如往さんの勤めていた企業が外資系ですよね。では、男女差別はなかったのかもしれません。
上記について回答する前に、経営管理について少し説明させてください。
職務をラインとスタッフの二つに区分して捉える経営管理の手法がありますが、概括すれば、 ライン[直接業務(会社の所得を生む機能)−直接部門]、スタッフ[支援業務(ラインの活動を支援する機能)−間接部門]になります。製造販売業であれば製造部門と販売部門がライン、その他の総務(人事・会計・経理・財務)等がスタッフにあたります。例えば民間の学校(私立)では、教師と事務局・広報部(学生募集)員はライン職、学務事務員や庶務係員はスタッフ職と云うことになるでしょう。
組織構成に関しては、大枠では日本でも米国でも同じような捉え方をしていると想われますが、重点のおき方に顕著な相違が観られます。日本の場合は組織図上も直接部門と間接部門が明確に分離されていることが通例であるのにたいし、米国の流儀ではスタッフ職の仕事を現場のDirector(課長or部長)が兼務している場合が多く、部門内の人事・採用(中途採用が主体)業務を行うことも珍しくありません。実際、米国の流儀では時には人事権までを有するDirectorは部下にとっては絶対的な存在であるのです。こうした関係性の中では、会社全体での統一性や整合性が問われる福利厚生等の制度の発想が生まれること自体難しいのではと推察されます。しかし一方では、それと引き換えに少なくともライン職に関しては男女間の賃金格差を是認するような日本的な男社会の論理を介入させずに済んだとも言えるのではないでしょうか。
職務の適性は基本的に“事”を軸にして決定されるべきだとの経営管理論の考え方があり、私はそれと見解を一にしています。つまり、第一に当該業務に適した能力があるか否かが十分考慮されるべきで、第二は当事者意識の有無であり、それは賃金格差とは本来無縁のもので性差の観点が入り込む余地はありません。しかしそれ故に、概して当時の米国系の外資系企業では男女差別の傾向は希薄とは謂えても、能力差による隔絶性といったものは日本の伝統的な企業風土よりも色濃く現われていて、適格と評価されない人達にたいする支援・救済の方策が皆無に等しいと言っても過言でないほど過酷な状況であったことも確かです。
日本人の習性としてたとえ職務不適性と評価されても人格や徳(?)が重要性を言募って妙に自分を納得させてしまうところがあり、それがビジネス上の様々なプレッシャーが生むストレスの回避にも役立っている一面もあると思います。他方、人格や徳と云ったものに価値がおかれない能力主義の世界では、他人の能力やキャリアにたいする羨望や嫉妬の気持ちは却って強いものがあります。米国人社員の多くが心労緩和や癒しの糸口を見つけ出そうと心理カウンセラーや宗教家の扉をノックするのはそんなことにも関係していると想われます。
“事”主義に準じた賃金体系においては元来男女を区分する概念はありません。例えば接客(業務)には専門知識は無論のこと、俊敏さ(シャープさ)や親切さ(ホスピタリティ)が要求されますが、これは性差と無関係のものです。私は周囲にいた何名かの女性の管理職を殊更に女性だと意識したことはありませんし、それには互いを同僚と見做すことが基本認識にあったと記憶しています。また、日本の企業ではしばしば“女子社員”と謂った呼称が使用されますが、部下にあたる女性の社員をそのように一括りすることもありませんでした。
私が勤務していたのが外資系といっても幾分か日本の資本が入っていたことやトップが日本的経営や日本の人事制度について理解を示していたので、業績評価の期間を一年とすることやキャリア開発の導入も視野に入れること等、能力評価のレンジを延長することにより調整を図ることができました。けれども、最も肝心な“事”主義への移行は日本の風習との兼ね合いの問題もあり、完璧には果たせませんでした。なんと謂っても現場のDirectorの意識改革を必要としますし、既に人事スタッフの業務と権限の範囲を超えてしまっていたのです。
経験を踏まえて、私は“(性差を問題にせず合意の基での)同一労働、同一賃金”をコモンセンスであると捉えています。けれども、原因や表出の形態は違っていても、男女差別は日本の社会にも西洋の社会にも未だに存在する事象であり、そして、多神教的世界観でも一神教的世界観でも、差別するのが男の側で差別されるのが女の側といった構図にはあまり違いがないように想われます。そこで、何故男は女を差別しようとするのか、その原因の究明や男という存在の在り方について探求していく過程にこそ問題の解決の糸口があるのではと推測しています。日本のナショナリストや米国のキリスト教原理主義者達は決して手掛けようとはしない事柄ですので、まさに男女の別なく気がついた者が生命科学者や動物行動学者の研究を参照しながら巷間に差別撤廃の啓蒙を図っていく他には状況を変革する手立てがないのかも知れません。少なくとも教育界は、そしてビジネス界もそうした偏見や差別とは無縁でありたいのですが、むしろ水面下では状況は悪化しているのではないでしょうか。それにしても前掲の保守勢力による妨害工作は執拗で強力であり、彼等は他者の心理に無頓着なるが故に偏屈で頑なですから事は簡単にはゆきません。けれども、挫けずに問題解決の向けて歩み続けていかねばならないと思っています。
書き始めてみましたら、想いの外冗長なものになってしまいましたが、どうかご海容のほどを。
また、会いましょう。