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前に「南京大虐殺」を研究した事がある。
その際に、史料価値というものを色々と考慮したことがある。
最近、9.11同時多発テロ事件の研究においても
陰謀論支持派と陰謀論否定派のスタンスの差による「採用する資料(史料)価値感の差」と云うものが気になっている。
確かに「陰謀論支持派」には「陰謀論の立証に有利な材料なら何でも採用」という部分がある。
しかし、仮に「陰謀論が正しい」のだとすれば「政府系(体制維持勢力)の検閲を受けている情報」には価値はほとんどないとも言えるのだろう。
そういった意味では「出所もハッキリしない情報」には価値がないと決め付けるという常識的思考法を疑うことも必要だろう。
陰謀論が正しいと仮定して「それを誤魔化すために政府系組織による情報操作がある」とすれば、真実の究明には「情報操作を受けていない情報の選択採用」という作業が必要になる。これは自明の理である。
出所がハッキリしない情報・・・確実な情報ではない・・・切捨て
と云うのも一つのセオリーであるが、「出所が不明な情報=間違っている情報」と決定しているわけではない。
そこには大きな誤解がある。9.11事件においては「公式発表に矛盾する情報があり」それは「出所が不明」だから「間違った情報」だと判断されるという流れになる。
最初の提示の状況で「その回答(結論)」に矛盾する情報として「示された情報」が「結論(公式発表)に矛盾する」のは当然である。
仮定と結果、結果と仮定が逆になっているのである。陰謀論支持派が帰納法的な思考法により「公式発表の不備」を指摘するのに対し、陰謀論否定派は演繹法的思考によって「公式発表が正しい」事を前提にして「情報の価値観を形成している」と云うことである。
このような両者が議論になった場合「互いに相手側が憑き物に憑かれている」と考え、自分の立脚点を省みることなく、「間違っているのは相手側」と「互いに思い込んでいる」と云う不毛な議論の応酬が予測される。
多角的な視点が欠如し、直感とか先入観で「資料の選択採用が行われる」と云うことである。
そんな事も、少し気に留めながら、論理的に思考する事が必要だろう。