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ナチ親衛隊に在籍していたというギュンター・グラス氏の生涯
http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/210.html
投稿者 Kotetu 日時 2006 年 9 月 14 日 22:50:33: yWKbgBUfNLcrc
 

 「ブリキの太鼓」などの作品で知られ、また戦前のナチス体制に対する厳しい批判でも知られるギュンター・グラス氏が、かつてナチ親衛隊に所属していたことを明らかにし、ひとしきり話題になりました。

 気になっていましたので、同氏の経歴を探していました。以下は、その年賦であります。

 この年賦によると、ギュンター・グラス氏は、SS第12装甲師団(ヒトラーユーゲント師団)に所属していたのではないかと思います。

 武装親衛隊ヒトラーユーゲント師団は、敗色濃い1943年に16〜17歳の少年兵を集めて編成されたおそらく唯一の「少年兵師団」であります。

>”ヒトラーユーゲント”師団が、1926年生まれの少年(1943年の編成当時、
>16か17才)を集めて編成されていたことはよく知られていますが、戦争に負け
>つつあるドイツでは、少年達に充分な栄養をとらせることができず、入隊してくる
>少年達の多くは、栄養状態が悪く激しい肉体労働に耐えられなそうなのばかり。
>しかたなく師団編成時の訓練では、第一に体力増進、第二に人格形成、兵器操作や
>戦闘訓練はその後という異例の命令を出さざるを得なくなったほどです。
http://www02.so-net.ne.jp/~muraji/gunji/SS12.htm

 同師団は、連合軍のノルマンディ上陸戦(1944,06)直後のファレーズの街で包囲殲滅された「ファレーズの地獄」(1944,08)で粉砕され、その後、再編成されて最後の大作戦「ラインの守り」作戦こと「バルジの戦い」(1944,12)に参戦、再び壊滅したようです。

 日本の新兵(18歳)より若く、鉄血勤皇隊(沖縄戦の中学生部隊)と同じくらいの年齢になりますね。ギュンター・グラス氏は、ノルマンディ戦後に再編されたヒトラーユーゲント師団に配属されたのではないかと思います。


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1927年 10月16日、食料品屋の息子としてダンツィヒに生まれる。
1933
 -44年 ダンツィヒの国民学校とギムナジウムに通う。
1944
 -45年 空軍補助員から労働奉仕団へ、続いて戦車兵となる。1945年4月20日、コトブス付近で負傷。マリーエンバート野戦病院に入院。のちバイエルンのアメリカ 軍捕虜収容所に収容される。
1946年 捕虜収容所から釈放後、農家でアルバイト、ヒルデスハイム近郊のカリ採掘場の労働者。

1947年以降 デュッセルドルフで石工見習。
1948年冬-52年 デュッセルドルフ芸術アカデミーでマーゲスおよびパンコク両教授に師事。

1951/52年 イタリアとフランスへ旅行。
1953
 -56年 ベルリンへ移住。造詣芸術大学で彫刻家カール・ハルトゥングに師事。

1954年 スイス人バレリーナ、アンナ=マルガレータ=シュヴァルツと結婚。
1955年 南ドイツ放送の抒情詩コンクールで「眠りの百合」が第3位に入賞。ベルリンでの「47年グループ」総会で初めて朗読。雑誌「アクツェンテ」に初の散文作品『僕の緑の芝生』掲載。
1956年 詩とグラフィック「風鶏たちの長所」。パリへ移住。シュトゥットガルトで彫刻とグラフィックの最初の展覧会。
1957年  フランクフルト学生劇場で戯曲 『大洪水』初演。エッセン市立劇場でバレエ 『余り切れ』初演。ベルリンで2回目の彫刻とグラフィック展。アンナ夫人とのあいだに双子の兄弟をもうける。
1958年  ケルン市劇場で戯曲『おじさん、おじさん』初演。『ブリキの太鼓』(原稿の2章を朗読)に47年グループ賞。西ドイツ経営者連盟文化部の奨励賞。ポーランド旅行。
1959年 小説『ブリキの太鼓』出版。エクス=レ=バンとボンでバレエ「五人のコック」上演。戯曲『32本の歯』。ボーフム劇場で一幕物『バッファローまであと10分』とフランクフルト市立劇場で『騎り行き、騎り帰る』初演。2度目のポーランド旅行。
1960年 詩とグラフィック「三角線」。パリからベルリンへ戻る。ブレーメン市文学賞。
1961年 短編小説「猫と鼠」。戯曲『悪いコックたち』ベルリン、シラー劇場アトリエで初演。社会民主党の選挙戦でヴィリー・ブラントを支援。長女誕生。アンナ=ゼーガースに公開書簡。
1962年 小説『ブリキの太鼓』にフランスの「最優秀外国書籍」賞。
1963年  小説『犬の年』。ベルリン芸術アカデミー会員。ミュンヒェン室内劇場で『金歯』初演。エッセイ「バレリーナ」出版。

1964年 『小さな金の口』上演。シェークスピア誕生400年祭で講演。
1965年  社会民主党のため選挙遊説。ゲオルク・ビュヒナー賞を受け、受賞講演として『自明のことについて』を講演。三男誕生。アメリカ旅行。ケニヨン=カレッジの名誉博士号を授与される。
1966年 ベルリン、シラー劇場で戯曲『賤民の暴動稽古』初演。『猫と鼠』映画化。エリーザベト・ボルヒャース、クラウス・レーラーとルフターハント社の抒情詩ルーズリーフを発行。プリンストン大学で講演。
1967年 詩と素描「アンケートに答えて」。人権のための国際連盟促進機関(ベルリン支部)からカール・フォン・オシェツキー・メダル。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州とベルリンで社会民主党の選挙戦に参加。
1968年 講演、論説、公開書簡、注釈「自明のことについて」。フォンターネ賞。ニュルンベルクの社会民主党大会で講演。「わが師デーブリンとその他の講演」出版。LCB双書に「お話、お話」収録。
1969年 小説『局部麻酔をかけられて』。ベルリン、シラー劇場で戯曲『その前に』初演。テーオドル=ホイス賞。社会民主党のための選挙遊説。
1967
 -70年 フランクフルト・アム・マイン市立劇場顧問。

1970年  ベルリン、ドイツ・オペラ劇場で、バレエ『案山子』初演。「戯曲集」。西ドイツ首相ヴィリ・ブラントとワルシャワへ旅行。ノルトライン=ヴェストファーレン州で社会民主党の選挙戦に参加。
1971年 「全詩集」。ラインラント=プファルツ州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ベルリンで社会民主党の選挙戦に参加。
1972年 小説『蝸牛の日記から』。
1973年 連邦議会選挙およびバーデン=ヴュルテンベルク州議会の選挙戦に参加。アンゼルム・ドレーアーのギャラリーと版画工房/ギャラリー・アンドレと共同作業を開始。マリア・ラーマの写真集に詩とリトグラフィック「マリア讃」。ヴィリ・ブラントとイスラエルへ旅行。アメリカ旅行。

1974年 講演、論説、注釈「市民とその声」。銅版画7枚と詩「愛を試す」(シューアネン社、ブレーメン)

1976年 ハインリヒ・ベル、カローラ・シュルテンと雑誌「L‘76」創刊。ルフターハント社に著作者顧問会を共同で設立。ジークフリート・レンツとともに社会民主党の連邦議会選挙戦に参加。リトグラフィーと詩「ゾフィーと茸狩りに行った」(ジョルジオ・ウピリオ社、ミラノ)

1977年 小説『ひらめ』。パレルモの国際モンデルロ賞。銅版画7枚と詩「ひらめの骨しか残らなかったとき」(ギャラリー・アンドレ、ベルリン)刷り師フリッツェ・マルグルと共同作業開始。

1978年 ベルリン芸術アカデミーの後援でアルフレート・デーブリン賞を創設。エッセイ『さまざまなユートピアと競争しながら』。エッセイ「カフカとその執行人」。ヴィアレッジョ市の国際文学賞。ダンツィヒ市のアレクサンデル・マヤコフスキ・メダル。政治演説と論説、1965-76「メモ用紙」。アンナ夫人と離婚。ウーテ夫人と再婚。日本旅行。
1979年 物語『テルクテの出会い』。映画『ブリキの太鼓』公開、カンヌ映画祭でグランプリ。フォルカー・シュレンドルフ監督とウーテ夫人と共に中国旅行。
1980年   『頭脳の所産、あるいはドイツ人は死滅する』。「文学論集」。L’80出版社を設立(以後雑誌L’76はこの表題で発行)。ゲッティンゲン市の文学のためのワイン賞。
1982年 「描くことと書くこと」第1巻(素描とテキスト、1954-77)。『裏庭』(ニカラグア旅行の報告)。リトグラフ22枚ファイル「父の日」(モニカ・ベック出版、ハンブルク)。

1983年 詩と銅版画「ひらめよ、おまえの童話は悪い結果になる」。ベルリン芸術アカデミーの総裁に選出される。

1984年 「描くことと書くこと」第2巻(銅版画とテキスト、1972-82)。政治的反論、1980-83「抵抗を学ぶ」。
1985年 ヴェーヴェルスフレートの家をベルリン州に寄贈。「アルフレート・デーブリンの家」は長期滞在の仕事場として作家が利用。
1986年 小説『女ねずみ』。ベルリン芸術アカデミー総裁の任期終了。銅版画とリトグラフの作品目録「銅板、石版」。1986年8月-1987年1月カルカッタ滞在。
1987年 10巻の著作集。ギュンター・》ベビー《・ゾンマーと、抒情詩とパーカッション「昔むかし一つの国があった」。初期作品集「僕の緑の芝生」。
1988年 『ゾフィーと茸狩りに行った』。『舌を出す』。銅板画ファイル「カルカッタ」。

1989年 『スケッチブック』。ローマ・クラブで講演「例えばカルカッタ」。
1990年 『死せる木』。『ドイツの負担調整』。ルードルフ・アウクシュタインとの論争「ドイツはただ一つの祖国か?」。フランクフルト大学の詩学客員講義「アウシュヴィッツの後で書くこと」。「東ドイツという名のスナック菓子」。リトグラフ・ファイル「われわれの頭の中の皆伐」。ポズナニ大学名誉博士。ゲッティンゲン、ドイツ劇場で小説『ブリキの太鼓』朗読。


1991年  『アルトデーベルンからの手紙』。カセットテープ版『ブリキの太鼓』。仕事場報告「40年」。評論集「流れる時に抗して」。
1992年 小説『鈴蛙の呼び声』。講演「損失についての講演」。12月、難民の庇護権を制限した新難民法案への同調に反発して社会民主党と絶縁。
1993年  詩集「十一月の国」。ブランデンブルク州労働・社会・保険相レギーネ・ヒルデブラントとの対話「損害を限定する、あるいはたしなめる」。ギュンター・》ベビー《・ゾンマーのパーカッション伴奏による朗読CD「そこでひらめは言った」。グダンスク大学名誉博士とグダンスク市名誉市民となる。
1995年 大江健三郎と往復書簡。小説『はてしなき荒野』。ベルリンからリューベックに引っ越す。
1996年 デンマーク文化勲章、リューベック市のトーマス=マン賞を受ける。
1997年 テレビ映画『女ねずみ』(監督:マルティン=ブッフホルン)、70歳の誕生日にARD(ドイツ公共放送)で放映。トルコ人作家ヤサール=ケマルのドイツ出版協会平和賞授賞式で、ドイツ政府の難民政策転換とトルコ政府を非難。
1998年 『祖国は一つではない』。5巻からなるインタビュー=シリーズ「人に」増補新版。
1999年 小説『私の一世紀』。180を超える対話が連邦共和国歴史館でドキュメンタリービデオの形で公開される。ノーベル文学賞受賞。
2001年 6月26日ブレーメンでギュンター=グラス基金が設立される。アメリカの対テロ政策を暴力に対する暴力として批判。
2002年  小説『逆行して』。2月3日、総選挙の首相候補、CDUのエドムント=シュトイバーをスキンヘッズよりも「おそらく危険な存在」として批判。リューベックにギュンター=グラス館がオープン。
2003年 1月21日、官邸で首相らとイラク問題に関する文化人会議。
※作品名には『』を、出版物その他の固有名詞には「」を付した

http://members.at.infoseek.co.jp/oskarchen/zeittafel.htm
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