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(回答先: 「姥捨て山」があった 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2006 年 8 月 26 日 08:38:38)
まとはずれのおせっかいさん、こんにちは。
私の思った事をここに書かせていただきます。
わたしは、可愛そうという言葉に抵抗を持っております。
それは、思い起こせば、親にそう教えられたのだと思います。
可愛そうと言う言葉は、他者の状況に対する憐れみ、おぞましさ、そして、
自分がその立場になったときの恐怖などを表しているのだと思います。
そこには、感想以外の表現はなく、うすっぺらい言葉として連呼されるます。
拉致被害者の方々、レバノン、イラクの子供達、昨今の子供達の事件、犯罪、事故、、
そして、今回の子猫騒動。
マスメディアは、こぞってこの“可愛そう”を引き出す為の機関のように
声高に報道し、非難、煽動を、繰り返しております。
私たちは、その“可愛そう”から一歩前へ踏み出さなければなりません。
引用、星野道夫氏の言葉
>私たちが生きてゆくということは、誰かを犠牲にして自分自身が生きのびるという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中で見えにくいその約束を最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民族である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、再び犠牲になってくれることを祈るのだ。
他者の生命を奪う事を、自分以外の目に見えない場所に委ねている現代人は、
他者の生命を奪うという苦しみと悲しみから逃げているだけなのです。
そのような状態が続けば、自然との乖離はますます進むに違いありません。
自分の手を汚さず、安全なところで、平和を営む事の変りに、
表面からは判らない心の中が荒んでいっているのが現代人なのではないでしょうか?
自然が好きといいながら、本来の自然などどこにもなくなってしまった日本、、
畑は荒れ果て、川は護岸工事が進み、、
私の怒りの矛先は、子猫一匹の事よりどこも同じつまらない風景になってしまった
我が国の状況に向いております。
失礼いたしました。